バイクの英語

第30回 Daft as a brush(前編)
(ダフト アズ ア ブラシ)

 イギリス人はとにかく反骨精神が強い。反体制というか、「お上」が決めたことはとりあえず疑ってみて、反発する。パブで議論して、自分なりの答えを導き出し、従うかどうかは自分で決める。従わないと決めたならば、それにより罰を受けないよううまく立ち回る。もし咎められるようなことがあっても、自分の考えをしっかり持つこと、その状況に合わせた判断を自分なりにしたこと、それに伴う責任について説明するだけの理論性や思考能力を持つことが多い。
 ドイツ人はそういったところに融通が利かない人達だとされている。「ドイツ人は車が全く来ていなくても、歩行者用信号が赤だったら止まってるんだぜ!」というのはイギリスのジョーク。日本ではそのジョーク、どこが面白いの? と思いそうだが、イギリスではみんな爆笑する。反対にイギリス人としては一体なぜその信号に従っているのかがわからないわけだ。自分の判断で危険ではないと思ったならば、渡ればいいじゃないかと。イギリス的発想では、何も危険がないのに信号が赤いというだけで渡らないというのは、とてもバカげているのだ。(もっとも、この話ジョークであり真実かどうかはわからないし、それぞれの国には様々な個人がいるわけで「国民性」として決定付けるつもりはもちろんない。しかし以下、仮にイギリス的アプローチ、ドイツ的アプローチとして話をすすめる)
 イギリス的アプローチと、ドイツ的アプローチのどちらが正しいかはわからない。きっと地域性や積み上げてきた交通社会の歴史など絡んでくるのだと思うから一概には言えない。だが、イギリススタイルは自発性と個人の思考能力が問われていると言えるだろう。赤信号を無視しようと判断する自分。それによって負うリスクもしっかりと把握する自分。そのどちらもイギリス人だ。
 ドイツ的アプローチは、自分で考えなくとも安全が確保されているから成り立つのかもしれない。ホームにも扉がある「ゆりかもめ線」のように、ハード面でより高い安全性を確保しているとも考えられる。赤信号は例え安全に見えても危険が潜んでいる。一方で青信号ならば(イギリスの交通事情以上に)相当に高い安全性が確保されている可能性がある。確かにドイツの道路事情はヨーロッパの中でも非常に成熟していると感じるが、この歩行者用赤信号の例では、どこか大切な判断を他人に委ねてしまっている傾向があるようにも思う。

 では日本は。明らかにドイツ的アプローチだろう。特に交通事情に関しては、責任ある行動をする人が少なく大変危惧している。交通ルールさえ守っていれば、その先にある安全性の確保のためのドライバー個々の思考能力は問われていないと思っている人が多いように思う。
例えを挙げたらきりがないが、歩行者用信号の話から脱線しないように挙げると、歩行者用信号が青だったら周りの交通事情を全く配慮せずに渡っていいと思っている歩行者が大半のようだ。右左折待ちの車がいようとお構いなし。のんびりと横断歩道を渡り、巻き込んでくる車に対しての自己防衛意識が著しく欠如している。
 最も危惧しているのは子供の横断だ。よく見かけるのは歩行者用赤信号の前で、徒競走のスタートのように構えている子供。青信号になったとたんにダッシュで横断歩道を渡り始める。これは危険極まりない。遅れて交差点に進入してくる信号無視車がいないとも限らないし、右左折車が歩行者を見落としている可能性だってある。しかし子供たちは妄信的に青信号に向かって突っ走る。さらに不思議なのは渡り終えたら走るのをやめるのだ! 逆だろう。歩道はある程度走ってもいいが、横断歩道は安全の確認をしながら慎重に渡るべきところだ。
 これを見て、小学校ではいったいどんな安全教育をしているのかと憤ってしまう。そこで逆説的に、「赤信号を無視しよう」というキャンペーンはどうかと考えている。赤信号は無条件に止まれ、ではなく、赤信号でも安全が確認できれば渡れるじゃないか、というものだ。赤信号を渡るのは危険が伴う。そのため、入念な安全確認とあらゆる状況を想定する想像力がどうしても必要になる。これにより信号に頼らず常に安全を認識するようになり、結果として青信号でもしっかりと安全を確認する意識が芽生えると思うのだ。荒治療かもしれないが、歩行者にも交通社会の一員として一定の状況判断能力、危険判断能力、責任能力、そして子供たちにはただただ決められたルールに従っていればいいのではなく、自分で考え、判断し、行動する自発性をも備える新しいアプローチになると思うのだ。

 このお話を書こうと思ったきっかけは、最近車道にあふれている自転車の危険性をひしひしと感じているためだ。東京都をはじめ、歩道での自転車事故を減らそうと、自転車は車道を走るように、というルールができた。わずかな例外はあるが、一応はルールとして決められている。歩道での事故もベルの適切な使用と譲り合いの精神、歩行者への声がけなどでいくらでも減らせるものであるのに車道へと締め出してしまえばいいというのもまた安易な話だが、筆者があきれているのはこのルールをバカ正直に受け入れている人達だ。
 先日、都内から神奈川方面へと走る大動脈国道246号線を走っていた。片側2車線、中央分離帯付、もちろん歩道付。時間は23時ごろで、小雨が降っていた。制限速度は一般道では普通の60キロだが、実際には85キロぐらいで流れている。この道を、ママチャリに乗ったおばさんらしき人物が、暗い色の傘をさし、車道の横をふらふら走っているのだ。こんな時間では歩行者はいない立派な歩道があるのに、である。ママチャリに前照灯はついていたかもしれないが、少なくとも尾灯はない。その横を通り過ぎる車はびっくりして右へと車線変更していく。右側車線にいる人からもその自転車は非常に見えにくいため、一体何が起きているのかがわからない。自転車がひかれれば死亡事故に繋がる可能性は非常に高く、さらにもし自転車がひかれなくても、その自転車の行動により二次的な事故が引き起こされる可能性も高い状況だ。
 この自転車のおばさんを危険な車道に追いやったのは、自転車は車道を走らなければいけないという新しいルールだろう。車道を走るなら少なくとも車と同じように車両のルールを守り、かつ夜間だったら前後にライトをつけなければいけないなどのルールも設定するべきだとは思うが、しかしそれよりも怖いのはこのおばさんの危機管理能力の低さだ。自分がこの状況で車道を走っているのは危険だと認識できていないのだろうか。自分のその行動のために他の事故を巻き起こす可能性があることは見えていないのだろうか。判断力、想像力、自転車とはいえ「車両」を走らせている責任能力、いずれもとても低いレベルにあると言わざるを得まい。
 彼女はドイツ的アプローチで「ルールを守っていれば自分で判断する必要はない」と思ったのだろうか。彼女は青信号に突進する子供だったのだろうか。彼女は現代の交通社会を、自分及び他人を傷つけずに生きぬくことができるだろうか……。

 今月の英語は:
Daft as a brush
(ダフト アズ ア ブラシ)
です。
 直訳すれば
「ブラシと同じぐらい低能」

 ブラシとは日本で言うところのホウキのことです。ホウキはあまり頭が良くありませんね。そういう意味では別にホウキではなくても良かったのでしょう。「タマゴと同じぐらい低能」でも「ガソリンタンクと同じぐらい低脳」でも良いわけですが、この言い回しの語源にはホウキが深く関わっているのです。諸説ある語源の中の有力な一つ、今月は長くなってしまったので来月に改めてご紹介しようと思います。

筆者 
梶ヶ谷 コリーヌ
フランスから移住してきたフリーライター。愛車はV6エンジン搭載のプジョー406。小排気量でキビキビ走るフランスのスタイルについても議論したいが、私的感情が入ってしまいそうで今回は遠慮した。何でもバカ正直に信じるのは好まず、炭水化物ダイエットも信じない。「米と唐揚げ食べるからいけないだよ! 米と納豆を食え納豆を!」が口癖。


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