MBHCC A-6

かつてミスター・バイクの誌上を彩った数々のグラビアたち。

あるときは驚きを、またあるときは笑いを、そしてまたあるときは怒りさえも呼び込んだ、それらの舞台裏ではなにがあったのか?

1980年代中盤から1990年代に、メインカメラとして奮闘した謎の写真技師こと、エトさんこと、衛藤達也氏が明かす、撮影にまつわる、今だから話せる(んじゃないかと思うけど、ホントはまずいのかも)あんな話、こんな話。聞きたくないですか。

すごく真面目な平さん

「エトーよ〜、今度お前もよく知っているある人を表紙に使おうかと思ってな。それで、お知恵を拝借ってことで相談に乗ってくれよ〜、なっ、なっ、なっ」いつものように近藤編集長から呼び出され編集長室に行くと、真面目な顔をして言いました。
「誰ですか、その人は?」
「平選手だよ」
「あの平さんですか」
「そう、あの平」
「何でまたミスター・バイクに。本が違うんじゃないっすっか。ライダースとかライディングスポーツでしょ」
「そこら辺は、ほら、大人の事情というやつで、なっ、なっ、なっ」
「はあ。で、どのような絵をお望みでしょうか。ご予算にもよりますが(これは、もちろん冗談です)」
「また、また、また。そんなこと言って。たのむよエトー。やっぱさ、平さん(私が「平さん」と言うので、編集長もいつの間にかさん付けになっていました)と言えば、ロードレース国際A級全日本チャンピオンのイメージが強いよな。でもさ、もう引退しちゃったんだから、レース色を排除してミスターらしく料理したいじゃん」
「いつものように特撮やりますか。ご予算にもよりますが(これも、もちろん冗談ですが、仕掛けによっては冗談じゃなくなります)。でも、信哉さんみたいによく知った人じゃないし、やってくれますか、平さんが」
「エトー、ずっとサーキット行って撮影してんだからさ、平さん友達みたいによく知ってんじゃねーの?」
「相手はチャンピオンですよ。私ごときじゃ恐れ多くて近寄れません。もちろん話をしたこともありません。でも、私が某I事務所にいたペーペーの頃、平さんのこんな話がありますよ」

  
 あれは夕方4時半頃だったでしょうか。菅生サーキットでの取材を終わり、仙台市内のチサンホテル(懐かしいです。今でもあるのでしょうか)に向かっていた道中の出来事でした。
 私はI社長のスカイラインを運転していました。すると、後ろからすっごいスピードでワンボックスカーが煽ってくるではないですか。今はどうなってるのか解りませんが、当時はとても細く追い越せるような道ではなかったのです。
 ワンボックスの運転席には平選手。横で陣頭指揮(多分)とっていたのが金谷選手。後ろには河崎選手も乗っていたような気がします。平さんは未だ#62番で、私と同じ下っ端(ヤマハのレーシングチームの中では)でした。きっと「前のスカイラインはI社長の車だ。大丈夫だから煽りまくれ」とK選手(今さらですが、一応イニシャルで)に命令されたのでしょう。ずっ〜〜〜〜〜〜〜っと煽り続けられ、死にものぐるいでやっと見つけた路肩に止まって道を譲りました。(※注1) 



1994年4月号
今回のネタはミスター・バイク1994年4月号の表紙です。憶えていますか?

 
 なんであんなに急ぐでしょう? と訪ねる私に、I社長は悟ったように言いました。
「レーサーはな、サーキットでいつ何が起きて、転倒事故で亡くなってしまうかもしれない。だから、レースの前日は悔いが残らない様に〜(※以下、未確認情報ですから、変に波風が立っても困ってしまいますので、各自ご想像ください)。だから急いでいるのだ」(※注2) 

 
 話は、続きます。が、ここから平さんは関係ありません。
 ホテルにチェックインした後、車で食事に行きました。I社長はK編集長(今さらですがイニシャルで)同様、大のお酒(と女性)好きで、食後フィリピンバーに行くことになりました。私は運転手なので一滴も酒を呑めません。私も嫌いじゃないので、本当は死ぬ程飲みたかったのですが、呑みませんでした。当時からこの業界ではスピードはともかく、飲酒運転は厳しかったのです。えらいでしょ、当たり前か。
 帰りの車中、赤信号で止まっているとかなり出来上がったI社長が後ろの席から「運転手さん、ここは思い切ってカウンターを当てて曲がって下さい」と適当なことを言うのです。お酒は呑まなかったのですが、フィリピンバーの熱い雰囲気に酔ってしまった私は呑めないストレスもあってか、信号が青になるや否や思いっきりアクセルを踏み込みました。タイヤがいい音を立てます。すかさずハンドルを左に切ると同時に車体が滑り出し、そのまま縦列駐車していた車と車の空いていた一台分のスペースに突っ込んでいきました。左タイヤが縁石を乗り越えてステアリングバーを折ってしまいました。
 幸いにも前後の車、信号機や電柱にもぶつかりませんでした。が、かんばしい状況でもありません。青くなったI社長の「撤収!」の一言で直ちに走り出しました。が、右にしか曲がれずホテルまで右に右にキコキコ変な音を立てながら曲がって帰りました。
 翌日、明るくなってから車を見ると、とてもじゃないがサーキットに行ける状態ではありません。近くのディーラーに連絡し引き上げにきてもらい、他のカメラマンに便乗させてもらいサーキットに行きました。
 後日、免責の3万円を払って引き取りに行きました。実際は60万円程修理代がかかったみたいです。車両保険に入っていてよかった。これ、大事ですよ。 


忠さん

真田さん
本誌でもおなじみ忠さん(写真上)と、ワークスの総帥、故・真田さん、そして平さん。みなさん若い!

 
「エトーとIちゃんのそんな話は、どーでもよくも……ないけれど……肝心の撮影はどーすんだよ」
「平さん真面目ですからねー。ホイールスピンとか派手なことやってくれますか? ところで、バイクは何を使うんですか」
「ヤマハのXJ1200だ」
「なら、最近アメリカ映画で流行っているみたいに派手にステップから火花出して、ハングオンなんてどうでしょう」
「おっ、それいいな。でも、平さん真面目だからなぁ、やってくれるかなー。だいたいさ、ステップ擦るだけで派手に火花出し続けられるのか? なっ、エトー、迫力ある絵を作ってくれよ。なっ、なっ、なっ。たのむよー、エトー」
 みなさんすでにご存知かと思いますが、近藤編集長は困ると「なっ!」を連発し、甘えん坊になるのです。
「大丈夫ですよ、いざとなったら秘密兵器を使いますから安心して下さい」
「何だよ、秘密兵器って」
「それは秘密です。お楽しみにして下さい」
「あっ、それからよー、忠さん(ご存知の鈴木忠男さん)と哲ちゃん(※注3)もいっしょに行くから」
「豪華メンバーですね。せっかくですから、色々手伝ってもらいましょう。で、どこで撮影するんですか?」
「袋井のテストコース。早朝7時から1時間だけのケツカッチンだから時間厳守な」


●(※注1)もう30年も前の大昔のことなので発表してしまいました。すでに時効という事で許して下さい。
●(※注2)I事務所I社長の私的なコメントです。真偽の確認はまったくしていないただの推測です。
●(※注3)故・真田哲道氏。私にとって兄貴のような存在の人。暇だと電話をかけてきて「おい何やってんだよ」から始まりどーでもよい話を延々してくれました。「エトー、人間は40越さねーと誰も認めてくんねーよ。それまでは歯を食いしばって頑張れ。そうすれば、いいことあるよ」などと、色々と人生のアドバイスをしてくれた。でも、未だにいいことありません。なんとかして下さい真田さん! 真田さんの話ももっと書きたいのですが、また今度の機会に。

 

 
 撮影前日、編集担当が誰だったか忘れましたが、XJR1200を積んで撮影機材も乗せて、ついでに忠さんと真田さんも乗せて平レーシングへと向かいました。
「平さん、ホイールスピンとか色々できますか」忠さんに訪ねると「大丈夫だよ。元レーサーだろ。できるよ。大丈夫、いいね! 最高だね!!!」といつものようなポジティブな言葉が返ってきました。
「真田さん、大丈夫ですよね、平さん……」と、自分を安心させる様に問いかけると「心配すんなよ。平だぞ、そのくらいのこと簡単にできるよ。安心しろよ。それより早くおいしいウナギ食おうぜ!」この人も、いつものように前しか向いていません。
 もしものまさかの場合に備え秘密兵器を持ってきたから何とかなるだろうと、自分に言い聞かせ、平レーシングに到着しました。
 まずは平さんに挨拶し、撮影の内容を説明しました。ホイールスピンして煙をガンガン出したり、ステップを擦って火花を出すことが可能かどうか相談していると、忠さんが「ホイールスピンの見本を見せてやるよ」とその場でいきなりホイールスピンをやり、タイヤからモクモクとけむりを吐き出しました。
「このバイクいいね、簡単にホイールスピンしちゃうよ。最高だね!!! 平もやってみな。簡単だから」
 平さんはかっこ良くバイクに跨がったのですが、なぜかホイールがスピンしないのです。何度挑戦してもスピンしないのです。そのうちクラッチが焼き付いてしまいました。昔のレースマシンは半クラを多用するのが当たり前。市販車とは操作感覚が違うので、半クラッチを使いすぎて焼き付かせてしまったようです。レースではホイールスピンなんてしないし、レース一本で真面目にやってきた平さんは、レースに関係ない余計なことをすることなどなかったのでしょう。こんなことを書くと、信哉さんに突っ込まれそうですが。(※注4)
 さあ困まりました。クラッチが焼き付いてしまったら、ホイールスピンどころか走れません。ステップから火花という撮影プランがガラガラと崩れる音が聞こえたのです。まるでジョーがリングに膝から崩れ落ちるかのごとく。それと同時に頭の毛が少し白くなった気さえしました。


記事

記事
巻頭特集も平さんとXJR1200でした。ちなみにこのページのタイトルカットで使ったピースしている平さんの写真は本邦初公開です。

 
「忠さん! どうしましょう……どうしたらいいんですか……」ほとんど涙目、かわいい捨て犬のように目をウルウルにして訴えました。
「壊れたんだろ? 直せばいいじゃん」さすが忠さん、ただの脳天気なおっさんではないのです。すかさず修理を始めました。真田さんも手を出します。いざとなると頼りになるオヤジ達です。平さんもお店の方も手伝って修理は着々と進んだかに見えたのですが、かなりの重傷でした。比較写真を撮るためにカスタムとノーマルの2台を持ってきていたので、しょうがないからノーマルで撮ろうかと提案したら「走行シーンはカスタムじゃなきゃダメ」と編集担当(※注5)の一言で却下されました。



記事

最近偶然発掘された当時のポジケース。ここに書かれた激しくクセのある字は間違いなく、あの安生さんの直筆。本人に尋ねたら「なに? そんなのし〜らないよ。シュ〜クリ〜ム買っ〜て今日は早く帰らなきゃ」とガン無視されてしまいました。

 
 結局、ノーマルからクラッチを移植することになりました。こうなるとかなり時間がかかるので、後は平さんとお店のスタッフの方が修理し、朝7時前に袋井テストコースで待ち合わせとなったのです。


●(※注4)でも、信哉さんから「俺は男には突っ込まねーよ」なーんて、いつもの複雑な冗談が飛んできそうです。
●(※注5)担当編集は誰だったのかまるで憶えていません。やはり安生さんかな? だとすると「だ〜めだよ、や〜っぱり、は〜しりはカスタムじゃな〜きゃ、い〜みな〜いでしょ、だはっ。」って感じだったのでしょう。

 
 もうやることのなくなった我々一行は、真田さんご希望のうなぎを食べながら作戦会議をしました。その結果、ホイールスピンをあっさりあきらめました。実は最初からほとんどそのつもりでした。ホイールスピンは後ろからの撮影がメインで、肝心の平さんの顔が見えないのです。せっかくミスター・バイクに出ていただくのだから、やはり顔が写ってこそインパクトがあり、読者を驚かせると思っていました。だからホイールスピンの絵は一応、撮っておこうかぐらいのつもりだったのです。
 こうなったら秘密兵器の出番です。ステップの裏側に見えない様にアルミパイプで作ったドラゴンホルダー(※注6)を装着するのです。大げさに秘密兵器と言っても、大したことはないのです。ドラゴン花火で火花を演出するのです。


●(※注6)ドラゴン花火からの火花が不自然な方向に出ないようにするのと、短時間で撮影しなければいけないので、時間のロスを抑えるため簡単にドラゴン花火の脱着装着が出来るよう真田さんに特注で作ってもらいました。今思えば真田さんとこのマフラーDrag_onは、これからヒント得たのかも? と、勝手に想像してしいます。

 
 撮影時間は1時間しかないし、しかも写真に迫力=いわゆる躍動感を出すためにはスローシャッターで撮らなければならないので、スピードが乗っていない状態で迫力の走りをしてもらわなければ絵にできないのです。持ってきたドラゴン花火は20個強。昨日の作戦会議で、点火係を忠さんが、真田さんは平さんに合図を出す連絡係と役割分担したのですが、「大丈夫、大丈夫、心配ないって」と細かい打ち合わせをすっ飛ばして、お酒をガンガン呑み始めたことは言うまでもないでしょう。

 翌朝、ほとんど寝ずに修理してくれた、平さんをはじめスタッフの方々が赤い目をして待っていてくれました。その間、我々は酒を呑み、浴衣を乱し、腹を出し、大いびきをかいていたのです……そんな後ろめたさをそーっと棚の上に乗せ、さらに「本来ならばひとやすみしていただいた後、撮影させていただきたいのですが、時間が押しているもので……」と上っ面の言葉で取り繕い手短に打ち合わせをしました。まじめな平さんは、寝不足なのに嫌な顔ひとつせず、すぐに準備をしてくれました。
 撮影したのは2月半ばでしたが、早朝は未だ寒く、慎重な平さんはタイヤが暖まるまでゆっくりウオーミングアップします。時間がないのですぐに撮影したいのですが、急かして転倒でもさせてしまったら、表紙撮影の最後の砦が崩れ落ち、再びジョーになってしまうのです(あくまで個人的イメージです。あしからず)。ぐっと我慢しそのときを待ちます。
 そんな私の焦燥とは裏腹に、遅くまで呑み続けていた真田さんと忠さんは目を赤く腫らして大あくび。よくよく考えて見れば、点火係と連絡係のような雑用をこのような大御所にしていただくのも大変申し訳ないことですが。
 しばらくして平さんからOKが出ました。カメラをセットし、ドラゴン花火もセット。まずはドラゴン花火のタイミングをテストしてみました。急いては事をし損じる、いきなり本番しないあたりが、さすがでしょ? テストの結果、点火後10秒程でドラゴン花火はピークに達しその後10秒程火花を出し続けることが解りました。こんなことくらい事前にやっておけ! という声も聞こえてくるような気がしますが……。


走行テスト

走行テスト
36枚撮りフィルム3本の没カットも発見されました。左の写真は火花の出るタイミングが遅すぎ。右の写真はドラゴン花火の噴火口がちょこっと見えます。

 
火花のピークとバンク角が最高の位置で決まらないと絵になりません。1回の撮影は走って戻ってドラゴン花火をチェンジして約3分かかりました。何回もテスト走行を繰り返し、ちょうど良いバンク角と火花の飛び散り具合の良いポイントが見つかったのは終了25分前。ドラゴン花火も残り10個となっていました。シャッターチャンスは一瞬です。残りの10個で決めなくてはというプレッシャーからか、変な汗と湯気が顔から出ました。異常に興奮した顔からの湯気と寒さによってファインダーが曇ります。さらに寒くて震えながら、そして迫る時間と戦いながら、なんとかギリギリで撮影が終了、と言いますかドラゴン花火が無くなったので終了となりました。
 手応えはあったのですが、現像から上がるまではドキドキ状態です。やはり私、小心者ですから。

 
 表紙になるのはたった一枚の写真ですが、その裏側には、こんな男達のドラマ? もあったのです。
 この後、何度か平さんの写真を撮影させていただくことになりました。そのお話も思い出したらまたの機会に。


衛藤達也
衛藤達也
1959年大分県生まれ。大分県立上野ヶ丘高校卒業後、上京し日本大学芸術学部写真学科卒業。編集プロダクションの石井事務所に就職し、かけだしカメラマン生活がスタート。主に平凡パンチの2輪記事を撮影。写真修行のため株式会社フォトマスで (コマーシャル専門スタジオ)アシスタントに転職。フリーになり東京エディターズの撮影をメインとしながらコマーシャル撮影を少しずつはじめる(読者の方が知っているコマーシャルはKADOYAさんで佐藤信哉氏が制作されたバトルスーツカタログやゴッドスピードジャケットの雑誌広告です)。16年前に大分県に戻り地味にコマーシャル撮影をメインに活動中。小学校の放送部1年先輩は宮崎美子さんです。全く関係ないですが。


●衛藤写真事務所
「ぐるフォト」のサイトを立ち上げました。グーグルマップのストリートヴューをもっと美しく撮影したものがぐるフォトです。これは見た目、普通のパノラマですが前後左右上下をまるでその場に立って いる様に周りをぐるっと見れるバーチャルリアリティ写真です。ぜひ一度ご覧下さい!

http://tailoretoh.web.fc2.com/ 

  

●webサイト http://www1.bbiq.jp/tailoretoh/site/Welcome.html
●メール tatsuyaetoh@gmail.com

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