MBHCC A-6

かつてミスター・バイクの誌上を彩った数々のグラビアたち。

あるときは驚きを、またあるときは笑いを、そしてまたあるときは怒りさえも呼び込んだ、それらの舞台裏ではなにがあったのか?

1980年代中盤から1990年代に、メインカメラとして奮闘した謎の写真技師こと、エトさんこと、衛藤達也氏が明かす、撮影にまつわる、今だから話せる(んじゃないかと思うけど、ホントはまずいのかも)あんな話、こんな話。聞きたくないですか。

第25回「相手をブチ抜くための<br />
高等テク? よくわかる?? その理論と実践??? Complianceって食べられるの? そんな時代のお話です。ああ、めまいが。」

 「松本憲明ってライダー知ってる?」

 I事務所でカメラマンをしているときの話です。チューニングバイクの取材兼撮影で訪ねたカスタム屋さんで初めて憲明さんの話を聞きました。入社して1ヶ月もたってない4月頃のことで、まだレース業界に首を突っ込んでいませんでした。ですから憲明さんはもちろん、事務所にベンツでやってきた全日本の大御所ライダーを本物のヤ○ザと勘違いしたり、菅生でいきなり後ろから抱きついてきた世界的に大変著名である小柄な外人ライダーをモーホだと信じたり……(第24回参照)。

「プライベートで500ccのレーサーを走らせている凄い奴だよ」と聞かされても、500ccマシンがどんなものか頭に浮かばないし、それをプライベートで走らせることがどんなに大変なことか、そもそもプライベートって何? というレベルでしたから全く想像ができません。私はただのバイク好き、ただのバイク乗りで、バイク雑誌はミスター・バイクしか読みませんでした。ネットなんてない時代ですから、バイクの知識=ミスター・バイクで読んだものでした(ほとんど何も知らないと同義語)。こんな人間が、この業界に入ってしまったのですから、不思議です。
 今回のお話は、そんな状態から少しずつ知識が増え始めた頃、憲明さんがミスター・バイクのキャラクターとして誌面に出始めた1980年代中頃のお話です。

 いつものように、I井さんからお電話がありました。
「エトー、今度さー、うちで松本憲明を応援することになってページを作ろーってワケ。編集部来て」

 その頃になると、私もレース業界にドップリ浸かっていましたから、ペーペーの頃のようなこともなく、もちろん憲明さんのことも知っていました。しかし、話をしたことはありません。といいますか……はなはだ失礼に当たるかと思いますが……その頃、私の憲明さんに対するイメージは……型遅れのマシンで一生懸命戦っていたのですが、非力なマシンでバリバリのワークスマシンや有力チームに無茶な走りで挑んでいつも転倒する人。松本憲明=転倒というイメージしか浮かばなかったのです。今更ですが、ごめんなさい。
 そんな憲明さんとどんな仕事でしょう。I井さんのことですから、普通のインタビューとか、お部屋拝見とか、そんな簡単なワケがありません。バイク雑誌で「アナタのパンツ見せてください」を企画し、自身街頭で何日も粘り、何百人の女性に声をかけ、そのうちの何人かのネジの抜けた女性、もとい、勇気ある女性のパンツを誌面に掲載してしまった編集者の鑑です。少なくとも、普通の人は考えないといいますか、やりたがらない、危険な企画の匂いがぷんぷんしてきます。不安を抱きつつ編集部に向かいました。

 編集部のいつもの食堂に、すでにI井さんと憲明さんが待っていました。恐縮しつつ話に加わると企画はもう決まっていました。
「で、エトーさ、トビラに使うイメージカットはスリップストリームイメージなワケ。憲明さんの後ろに乗って、かっこいい、スリップストリームのイメージ、バシっと。凄いの、たのむワケ」

「はぁ。それはいいのですが、あのー、カメラを構えて、ピント合わせて、シャッター押すとなるとどうしても両手を使うことになるのですが、その間どーやって落ちないようにすればいいんでしょう?」

「そんなのワケないだろ。憲明さんとお前をロープで縛っときゃ大丈夫なワケ」

「……あのー、たいへん申し上げにくいことなのですが、ロープでしばるということは、もしコケたりしたらどうなっちゃうんでしょう」

「エトーさ、憲明さんはレーサーなワケ。しかも全日本の500の現役ライダーなワケ。そこら辺のあんちゃんライダーとは違うワケ。だから安心なワケ。大丈夫だってばー。本当にエトーは心配性なんだからー」



1985年12月号表紙
今回は1985年12月号。巻頭は第26回東京モーターショー速報。ファラコラスティコ、GSX400X、VFR400Rなど出てます。第二特集は礼子さんがバニーしてたり、しげの秀一さんと荻野目洋子たんがNS400Rでタンデムしてたり、三原じゅん子さんとジャガー横田さんが抱き合っていたり、玉川良一さんがFZ400Rにまたがっていたり、小道迷子さんが根津甚八さんに抱きついてたり、よくわかりませんがどえらいメンツです。

 そう言われても、憲明さんはレーサーで、しかも全日本の500の現役ライダーで、それもいつもサーキットで転んでいる姿を見ているからこそとても不安なのです。が、さすがに初対面の本人の前でそれを口にする勇気を私は持っていませんでした。

 無論「憲明さんはコケそうだから後ろに乗るのは嫌だ」という理由でお仕事をお断わりすることなんて出来るわけがありません。それよりももっと大きな問題はスリップストリームという目に見えないものをどうやって絵に表現するかということです。

 I井さんと知恵を絞って、絞って、結局は風洞実験でよく使われていたような、ミミズみたいなひもをたくさん付けて、空気の流れを写すことにしたのですが、それだけではただの実験写真でなんかおもしろくありません。いわゆるミスターらしくないのです。

 
 そんな時は、困った時のヨドバシカメラ(広告担当者様、バナー広告、スペース空けてお待ちしております)。新宿西口駅前の大きなカメラの店に出向き、色々な階を物色していると面白いものを見つけました。サイクロンというフィルターで、レンズの前につけると渦を巻いたように映るということです。いったい何の目的で作られたのか未だ理解できないフイルターですが、今回の撮影には使えそうです。とはいえ、結局はこの時に使っただけで、以後は、これまたヨドバシカメラで購入した防水ケース(第22話参照)などと共に、衛藤写真用品蔵で永い眠りに入っているはずです。が、探したのに発見できませんでした。現在でも売っているのでしょうか?

 こんなわけのわからないフィルターで簡単に撮影を済ましてよいのだろうか……と心の葛藤もあったような、なかったような。気がつけばもうレジに並んでいました。心の弱いカメラマンなんです。

 撮影当日I井さんは予告したとおり、憲明さんと私をロープで一心同体にして、GSX-Rの後ろに載せられました。まずは憲明さんの肩越しにカメラを構え、前のバイクのスリップに入り込むという設定での撮影から始めました。

「大丈夫だから。安心して撮影しなよ」と憲明さん。いやいや、私は貴方様が転がるシーンをいつも見ているのですよ。安心しろと言われても……この期に及んではドイツ軍親衛隊のタイガー戦車に包囲されたレジスタンス状態。ビビりながら「無茶しないでくださいね」と答えるのが精一杯の抵抗でした。
 憲明さんにピッタリくっつくと、当然股間もぴったりあたって気持ちがいい、わけありません。信哉さんならば「エトー、男が男にキンタマくっつけんじゃねーよ」と激しく抗議したことでしょう。憲明さんは特に何も言いませんでした。それもなんだか別の意味で不安な要素になったりして。そう、とにかく心配が私の十八番なのです。



1985年12月号


1985年12月号
「相手をブチ抜くための高等テク よくわかるその理論と実践 これがスリップストリームだ!」というド・ストレートなモノクログラビア3ページのプチ特集。本文の最後に「どんなマシンでも最高速が伸び、燃費が大幅に向上する」なんて恐ろしく無責任な一文が……当時は誰も疑問に思わなかったんです。と、いいますかこれで当たり前だったのです。マジで。ところで、サイクロンフィルターの効果、わかりますか?

 心配といえば、まったく関係のない話ですが、大きめの地震の後ニュース速報などで「津波の心配はありません」とよく聞きますが、あの「心配」ってどういう意味なのでしょうか。「津波はありません」の方がストレートで解りやすいと思います。もしかして、日本中みんな私と同じように心配症で、フォローしてくれているのでしょうか?

 
 ところでこの写真どこで撮影したんでしょう? 改めて写真を見るとスピードメーターは80キロくらいを指しています。例えば高速道路だとしたら速度は問題ありま……ん? 当時高速道路で二人乗りしたらそれだけでアウト(汗)。さらに明らかに車間距離不保持(中汗)。撮影したのは筑波の自動車テストコースでしょうか(大汗)。その辺のことは、全くもって完璧に微塵も完膚なきまで思い出せません(華厳の滝汗)。

 ちょっと胃が痛んできました……えーっと、なんの話でしたっけ。
 そうそう撮影の話ですね。無事にトビラ用のイメージカット撮影が終わると、今度はワゴン車の後ろについて、実際のスリップストリームでどのように風が流れるのか、メインカットの撮影です。現場スタッフといっても4人(憲明さん、I井さん、私、もう一人の、キルロイか安生さんだったか編集部員がいたと思いますが、誰だったか忘れました)で、チマチマちまちまチマチマちまちまと、毛糸の切れ端を結構時間をかけてバイクとワゴン車と憲明さんに貼付けて、なんとか準備を完了しました。



1985年11月号
偶然に発掘された未公開カット。タイヤの先端に目がついているような車間距離です。これがレーサーなんです。これ、ホントに走っていたんでしょうか?

 いよいよ本番です。今度は憲明さんの後ろではなく併走車からの撮影なのでやや気が楽です。併走車を運転するI井さんは「エトー、ワシ運転してるから横見れないワケ。一発でわかるようにしっかり撮れ!」と叫んでいます。信哉さんとの撮影ならば何度もやっていたので、あうんの呼吸でしたが、憲明さんとは初仕事です。そう簡単にはいきません。憲明さんには声では伝わらないのでジェスチャーで、I井さんには大声で伝え、並走車との位置を調整してなんとか撮影を終えました。
 

 終わったときどっと疲れが出たことはハッキリと思い出せます。信哉さんだったら「エトーは俺様に向かってまるでタコがもがいて手が絡まって苦しみ踊っているような動きをしていた」と書きそうなほど、端から見ればおかしなジェスチャーをしていたようです。

 現像が上がってきたネガを見て、改めてギリギリ近づいてくれた憲明さんのおかげで風の動きがはっきり撮影できたことに感謝しました。やはり、レーサーという人達は凄い、凄すぎる。そしてそれをやらせたI井さんもぶっ飛んでいました。
 当時はほんとに結構やばい撮影をしていたものです。今ではとても許されないでしょう。

 危ない企画といえば、カメラマン伊勢ひかるが被写体になって「バイクと車がぶつかったら人間がどうなるか」というような身体を張った撮影をしたことを思い出しました。ちなみに伊勢はカメラマンであってスタントマンではありません。タイトルは「一番、ヒカル飛びます」というような軽いものだったかと思います。これもいつか裏話を書きましょうか。

 今回のお話は遠い昔の話です。今とは時代が違いすぎます。みなさん、危ないことをして、ツイッターとかに投稿してはいけません。


衛藤達也
衛藤達也
1959年大分県生まれ。大分県立上野ヶ丘高校卒業後、上京し日本大学芸術学部写真学科卒業。編集プロダクションの石井事務所に就職し、かけだしカメラマン生活がスタート。主に平凡パンチの2輪記事を撮影。写真修行のため株式会社フォトマスで (コマーシャル専門スタジオ)アシスタントに転職。フリーになり東京エディターズの撮影をメインとしながらコマーシャル撮影を少しずつはじめる(読者の方が知っているコマーシャルはKADOYAさんで佐藤信哉氏が制作されたバトルスーツカタログやゴッドスピードジャケットの雑誌広告です)。16年前に大分県に戻り地味にコマーシャル撮影をメインに活動中。小学校の放送部1年先輩は宮崎美子さんです。全く関係ないですが。


●衛藤写真事務所
「ぐるフォト」のサイトを立ち上げました。グーグルマップのストリートヴューをもっと美しく撮影したものがぐるフォトです。これは見た目、普通のパノラマですが前後左右上下をまるでその場に立って いる様に周りをぐるっと見れるバーチャルリアリティ写真です。ぜひ一度ご覧下さい!

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●メール tatsuyaetoh@gmail.com

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