MBHCC A-6

かつてミスター・バイクの誌上を彩った数々のグラビアたち。

あるときは驚きを、またあるときは笑いを、そしてまたあるときは怒りさえも呼び込んだ、それらの舞台裏ではなにがあったのか?

1980年代中盤から1990年代に、メインカメラとして奮闘した謎の写真技師こと、エトさんこと、衛藤達也氏が明かす、撮影にまつわる、今だから話せる(んじゃないかと思うけど、ホントはまずいのかも)あんな話、こんな話。聞きたくないですか。

第26回「狂い咲けたか、サンダーロード丸」

「狂い咲きサンダーロード知ってますか。サイコーにカッコいいスっねー。たまんねーっス」

 
 ロケに行く車内で、突然ホヤ坊が叫びました。秩父セメントと小野田セメントが合併し、ホンダがホライゾン(バイクじゃない方)を発売し、村山内閣が発足した1994年のある日のことでした。

 狂い咲きサンダーロード、ご存知でしょうか? 石井聰亙監督が日大在学時代に卒業制作で撮った映画ですが、全国公開され色々な賞を獲った衝撃作です。知らない人はウィキペディアで調べてください。読んでいるだけで見たくなりますから。
 この映画が発表されたのは、ライオン歯磨とライオン油脂が合併し、ホンダがバラードを発売し、鈴木善幸内閣が発足した1980年です。今からもう30年以上も前なんですね。

 なんでホヤ坊がこの映画のことを知っているんだろう? ホヤ坊は何年生まれだったかな? 私より10歳下としても公開当時は10歳くらい。まさか小学生がおこずかい持って見に行くような映画じゃないので、リアルタイムでは見てないはず。そんなことを思いながら言いました。

「あのな、その映画一緒に作ったよ。全部じゃないけど」

 あまりに驚いたのか、ぽかーんとお口を開けたまま、ホヤ坊時間は止まってしまいました。

「突然、何を言い出すんだ、この嘘つきポンチー野郎が!」と叫びたかったのでしょうが、それすら忘れ固着です。あまりに長い沈黙にこちらが心配になり声を掛けました。
「嘘じゃないって、本当なんだから。台本持っているから今度見せてやるよ」「ま、マジっスか! スチール撮影してたんっスか?」「違うよ。話せば長くなるんだけど……同じ九州出身の大学のクラスメイトがいてね、俺は大分でヤツは福岡だったんだけど、そんなこんなで仲良くなったんだ。ある時そいつがアパートの部屋を追い出されて住むところを探している間、俺んちに居候してたことがあったんだ。いつも二人でつるんでいたから『あの二人は絶対ホモだ』『どっちがタチなんだ?』『そりゃエトーだろ』『でも結構かわいいとこあるんだぜエトーは』『じゃあエトーがネコか?』『ちょっと見てみたいなエトーのネコプレイ』とかウワサになって困ったんだけどね。もちろんホモじゃないよ。ずーっとGUNが好きだったから。玉ふたつぶら下げている大砲じゃなくて。俺のは大砲じゃないけど。そっちじゃなくて鉄砲の方ね。あまりに熱中して大学のGUN研究会ってサークルに入っていたくらい。今度は癌の研究してると勘違いされて『エトーはホモだと思ったら、いつの間にか癌の研究している』とか、わけのわからないウワサになったりしてね。そんな話をしていたら『じゃあさ、今度福岡出身の先輩が卒業制作でアクション映画作るので、劇中で使用する銃器に詳しい人を探している。小道具集めたり、弾着作ったりするのを手伝ってくれないか』と誘われたのよ。ヤツは石井監督の映画でスチール撮っていたんだ。おもしろそうだからお手伝いしたって訳。ついでにちょこっとだけ出演もしたし、クレジットに名前も出てるよ」「ま、ままマジっスか、す、すげえっす、エトさん、見直したっス。しばらくポンチーなんて、言わないっス」ひとしきり興奮しましたが、急速に覚めた目になってぽつり言いました。「でも、写真は撮ってないんですね。あ〜あ〜あ、残念だな。写真があったら特集ページ組めるかと思ったのになあ。やっぱりポンチー……」
「最近、そのクラスメイトと久々に後輩絡みでつながったから、久しぶりに連絡してみようかと思ってるんだけどね。もしかしたら、当時のネガ持ってるかもよ」
 一転して目を爛々と輝かせたホヤ坊は叫びました。「マジっスかぁあああぁ! ぜひぜひお願いします。今度の編集会議で提案しますからねっ、絶対っスよ」ハイエースのフロントガラス一面にツバ吹雪をあびせながら。

●弾着技師 衛藤達也の失敗

 記事を読み返してみると、その後友達の事務所に行きネガを探したようなのですが、記憶がまったくありません。ちゃんと記事になっているのですからネガを借りることができたのでしょう。
 ホヤ坊が考えた特集は、映画本編のシーンをホヤ坊がたどっていく企画なので、私の名カメラマンぷりを見せつける出番は東京近郊のロケ地と、ジン役の山田辰夫さんインタビュー、そして表紙の撮影をするくらいでしたが……
「う〜ん……マジで? 本当にインタビュー行くの? ちょっと乗り気がしないなぁ……」山田辰夫さんのインタビューに、私の十八番、心配症候群がむくむく立ち上がりました。「どうしてです? なにかあったのですか?? 僕の尊敬するジンさんに何か後ろめたいことしでかしたのですか!」ちょっと真面目に、少々きつい口調で問いつめられました。出来れば思い出したくなかった、出来る事なら永遠に封印してなかったことにしておきたかったのですが、ここまできて話さない訳にもいきません。
「実は当時、業務用弾着のことをよく知らなくてね。大変なことをしちゃったんだよ。弾着っていうのは、映画なんかで銃で撃たれるとパーンと破裂して血しぶきが飛び散るあれのことで鉛筆の太さより少し大きいくらいかな。赤、緑、青、と3種類あって、赤が一番小さい人体用。緑が中くらいで、青は一番威力があって爆破シーン用だったんだ」「その弾着で、しでかしちゃったんですか?」「クライマックスシーンで、やっちゃったんだ」

 
 そのシーンとは山田さん扮するジンの敵になった仲間が撃たれるシーンでした。背景の壁と役者さん本人の背中に弾着を付けて血しぶきを飛ばす設定でした。時間も予算もギリギリでいつも押せ押せの現場でした。その時もすでに太陽が傾き始め、迫りくる時間との戦いでした。用事があり遅れて現場入りしたと同時に渡されたものが血糊袋で、とにかく急いで人体に装着してくれと言われました。手渡された弾着は青色でした。これは前記のように爆破用で生身の役者さんには危ないほど威力があります。
 最後の弾着シーンなので、壁には弾着がランダムに(適当といった方がいいかも)貼り付けられていました。中には赤い弾着もありましたので「これは危ないです。交換した方がいいです」と提案したのですが、時間が惜しいし「監督がド派手にやりたい」と言っていたからと、弾着を渡してくれた人が判断したようです。
 このままで爆発させたらもの凄く痛いはずです。せめて何かクッションになるものをと助言したら、その辺に転がっているコーラの空き缶を何個か押しつぶして使えば大丈夫と言うではないですか。ちょっと待ってください、硬いものより軟らかいものの方が衝撃を吸収するんじゃないですかと、再び提案したのです。すると誰かが「例えばバットで殴られる時にマットレスと鉄板、体に巻くならどっちが痛くない?」と言いました。誰かが「そりゃ鉄板じゃねえの」と叫んで、そのまま硬いものに決定してしまい、空き缶つぶしたものを3枚、弾着、大量の血糊の順番で役者さんの背中に装着しました(知らなかったのですがプロは、保護材、血糊、弾着の順で装着するようです)。

 すぐさま本番。「スタート」の合図とともに壁の弾着がランダムに発火。「血糊弾着スタート」の合図でスイッチオン。どでかい爆音が響き渡りました。あまりの爆発力に血糊がぶっ飛んでしまったようで、血糊が飛び散る様子は映っていなかったような気がします。ほぼ同時に「ギャー」というとても演技ではない奇声を発し、役者さんが倒れました。空き缶をつぶした板が爆発で体に叩き付けられたのです。



1994年11月号


1994年11月号


1994年11月号


1994年11月号


1994年11月号
これが今回のお話の巻頭特集です。激熱です。

「カット!」監督の声がかかるとその役者さんは、さらに苦しみもだえ始めたのだから大変です。スタッフが急いで医務室に連れて行きました。同時に山田さんが海賊フックの手を挙げて「なにしやがったんだよーーーーてめーーーーっ、このやろーーーーっ、殺す気か、テメー。ぶっ殺してやる」と私に向かって襲いかかってきたのです。
 映画のシーンそのもの以上、本気の本物マジの迫力でした。スタッフが暴れる山田さんをなだめてくれ、平謝りしてその場はなんとか収まったように見えました。惜しくも2009年に逝去されましたが、テレビなどで山田さんを見る度、大変申し訳ないことをしたと思っていました。

 話を終えると、珍しくホヤ坊は優しい声でいいました。
「大丈夫ですよ。きっとそんなこと覚えてないですって。だから安心して撮影してください」「でも、お会いしたら、まず最初に謝らせてくれよ」

 インタビューの日、山田さんにお会いするなり当時の経緯をお話して平身低頭謝りました。「そんなことあったっけ?」山田さんは覚えていないようでした。ひょっとしたら、気を遣ってくれたのかもしりません。実際、痛い思いをしたのは同じ劇団の役者さんです。今更ながらごめんなさい。深くお詫び申し上げます。
 インタビュー後の撮影は府中刑務所の裏手だったような記憶があります。すでにみなさんご存知のように心配症で小心者の私は、当時のことを思い出しかなり緊張していたのでしょう。最初の陳謝とこの写真を撮ったこと意外、ほとんど憶えていません。

●表紙の撮影

 最後は表紙の撮影です。本編の火山にバイクが落ちているラストシーンと同じ写真を表紙にしたいと、赤子のようなわがままを言うホヤ坊。赤子はそんなわがまま言いませんから赤子以上に手がかかります。でも、時々、赤子みたいにかわいいこともあります。あっ、誤解しないでください。ホモではありませんから。

 大きな赤子のわがままを実現するには、今なら間違いなく企業コンプライアンスを問われるサンダーロード丸を持って阿蘇山まで行かねばなりません。そんな予算あるわけない。例えあったにせよ阿蘇山の火口にバイク持ち込んで撮影なんて、確か国定公園かなにかで簡単にできるはずがないのです。さすがにゲリラ撮影はできませんと、切々と説明したのにホヤ坊は勝ち誇ったように言いました。
「大丈夫です。さあ、エトさん。いきますよ表紙を撮影に」「え? 許可取れたの? ホントに阿蘇までいくの? やったね、ついでに里帰りしちゃおうかな」「残念でした。あのシーンは阿蘇ではなく箱根の小涌谷だったんです。だからそこで撮影します」

 映画の設定では阿蘇山でしたが、実際は箱根で撮影されたことを石井監督にインタビューしたついでに聞き出していたのです。これは知りませんでした。さすがホヤ坊、好きなことはとことんやるヤツなんです。やりたくないことは……。

「で、どのあたりなの撮影場所?」「小涌谷としか聞いてませんから到着してから探します。スチール写真を持っていけばわかるでしょう」
 ホヤ坊、私、亀津っあん(優秀なアルバイト。現在は優秀なビジネスマンとして活躍中らしいです)の三人で箱根に向かいました。東京は曇り空でしたが、小涌谷に着くと雨。降り出した雨の中、着くなり買った温泉卵をほおばりながら、スチール写真をたよりに思案します。温泉卵屋の裏手に回って見ると、なんたる僥倖、多分ここだろうという場所がすぐに見つかりました。

「この辺じゃない?」「そうっスね、山の稜線からすると多分この辺りでしょう。早速始めますか!」「ちょっとその前に聞きたいんだけど、映画のシーンと同じ場所までバイク持ってくのかい?」「もちろんっスよ、なに当たり前のこと言ってるんっスか?」「でもさー、よく考えてみろよ。下まで降ろしちゃったらここまで引き上げるの大変なことにならねーかい。3人しかいないし、雨降って地面ヌルヌルだよ」「ん〜確かに。大切なサンダーロード丸を置き去りにはできないし……しょうがないっスね。だいたい似たようなところまで降ろしてあとはうまく撮影してください」
 場所はすぐに見つかったのですが、撮影は簡単にいきませんでした。映画をまねて車体を寝かせてセットしようとしたのですが、雨で地面が滑る滑る。少しでもバランスが崩れると、バイクがズルズルと勝手に落ちはじめるのです。

 見かねた亀津っあんが叫びました。「オレが体にロープ巻いて踏ん張ります!」さすがピカ一アルバイター。言うが早いかロープを体に巻き付けて、岩の出っ張りを利用して踏ん張ってくれました。雨が降る中、カメラをセットし少しでも映画と同じ風景が撮れるよう霧が晴れるのを待って粘ったのですが、なかなかいい具合になりません。踏ん張っている亀津っあんの顔色も真っ赤を通り越え青くなってきました。気丈にも「大丈夫っス!」と言ってくれますが、目がすでに死んでいます。ぼちぼち限界でしょう。霧が薄くなったところでシャッターを切りました。



1994年11月号
これが1994年11月号を飾った表紙です。いかがでしょうか。


1994年11月号
未使用カットが発掘されました。引いて見ると急斜面具合が解りますか。


1994年11月号
準備風景もワンカットだけありました。まだ泥まみれになる前のようです。

 案の定、その後が大変でした。地面は滑るし、斜めで力が入りません。すでにヘトヘトの限界状態の亀津っあんと2人でロープを引っ張り、ホヤ坊はハンドル操作。全身ずぶぬれ、泥まみれ予想通り最悪の撤収作業になってしまいました。先ほど食べた温泉卵が口から再び出てきそうになりながら何とか引っ張り上げると、3人とも身体中から小涌谷の湯煙のごとく湯気が出ていました。
 こうして無事(無事ではないけれど)、今回の任務は終了したのです。

 最後に一つ。マニアックなことですが、映画の最後の方でアルミホイルを巻き付けられたKH400で走り去るシーンがあります。そのKH、実は私のバイクです。見る機会があったら、ついでに私の勇姿も探してください。
 今回の話はあんまり面白くないですが、おやじの思い出話ということでね。


衛藤達也
衛藤達也
1959年大分県生まれ。大分県立上野ヶ丘高校卒業後、上京し日本大学芸術学部写真学科卒業。編集プロダクションの石井事務所に就職し、かけだしカメラマン生活がスタート。主に平凡パンチの2輪記事を撮影。写真修行のため株式会社フォトマスで (コマーシャル専門スタジオ)アシスタントに転職。フリーになり東京エディターズの撮影をメインとしながらコマーシャル撮影を少しずつはじめる(読者の方が知っているコマーシャルはKADOYAさんで佐藤信哉氏が制作されたバトルスーツカタログやゴッドスピードジャケットの雑誌広告です)。16年前に大分県に戻り地味にコマーシャル撮影をメインに活動中。小学校の放送部1年先輩は宮崎美子さんです。全く関係ないですが。


●衛藤写真事務所
「ぐるフォト」のサイトを立ち上げました。グーグルマップのストリートヴューをもっと美しく撮影したものがぐるフォトです。これは見た目、普通のパノラマですが前後左右上下をまるでその場に立って いる様に周りをぐるっと見れるバーチャルリアリティ写真です。ぜひ一度ご覧下さい!

http://tailoretoh.web.fc2.com/ 

  

●webサイト http://www1.bbiq.jp/tailoretoh/site/Welcome.html
●メール tatsuyaetoh@gmail.com

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