MBHCC A-6

かつてミスター・バイクの誌上を彩った数々のグラビアたち。

あるときは驚きを、またあるときは笑いを、そしてまたあるときは怒りさえも呼び込んだ、それらの舞台裏ではなにがあったのか?

1980年代中盤から1990年代に、メインカメラとして奮闘した謎の写真技師こと、エトさんこと、衛藤達也氏が明かす、撮影にまつわる、今だから話せる(んじゃないかと思うけど、ホントはまずいのかも)あんな話、こんな話。聞きたくないですか。

第30回 仙台七夕祭りの危険な誘惑とワナ

 
 偽装あばきが大流行の昨今、みなさまいかがお過ごしでしょうか。時流に乗って、ミスター・バイクやらせ疑惑の裏側を鋭くあばく、社会派ルポのGMB(冷汗)、今回は前回ちょこっと触れた挑戦シリーズ第二弾でお楽しみください。

 
 当時(今も……)、暇なフリーランスカメラマン(いわゆる私ですが)は、仕事がない時はのんびり起きて、お昼過ぎの3時頃編集部に行って、運が良ければ夕飯をごちそうになるのが日常のパターン化していました。
 あれは、後に私のカメラマン生命の危機を救うことになる「写るんです」が発売された1986年の夏のことでした。いつものように編集部でゴロゴロしていると、近藤編集長がニコニコと近づいてきました。

 
「エトー、腹減ってねーか? うまいもんごちそうするぞ」
 そして、編集部名物のふじ家丼(時価650円)をごちそうしてくれました。じっと隣に座っていた近藤編集長は、食べ終わるのを見定め、さらにニコニコ顔で言いました。
「エトーさ、仙台にはよくレースの取材で行くだろ。でもさ、七夕祭りは見たことあるのか?」
「そういえば、その頃のレースってなかったような気がします。あったとしても昼間に仙台市内に行くことはないですね」
「そうか、そうだろ、じゃあさ、見てこいよ。なっ。それでほんのついでに、ちょこっと取材してきてくれないかな」
「七夕祭りの取材ですか? それともショップ紹介とかですか?」
「いやいやいやいや、そんなめんどくさいのじゃなくてさ、菅生でバイク版トライアスロンみたいなイベントやるらしいんだ。本物みたいに何キロも泳ぐとか走るとか自転車乗るとかじゃなくて、バイクを使ったトライアスロンらしいからそんなにきつくないしさ。夜はパーティーもやるらしいしぞ。楽しそうだろ?」
「なんか、あやしいなあ……走りながら写真も撮るんですか?」
「駆け出しのYカメラマンと、もうひとりバイト君も行かせるから安心しろよ。Yとかわりばんこに撮影すればいいから。もちろんギャラもちゃんと払うからさ、安心して七夕祭り楽しんで、ついでに仕事してきてくれればいいからさ。OKだよな、行ってくれるよな、ふじ家丼うまかったよな、なっ、頼むよエトー、なっ! なっ!!」
 出た……最後はいつもの近藤編集長名物泣き落としで決まりです。
 とは言え、適当に写真撮って取材して、七夕祭り楽しん、夜はパーティーで酒盛りしてわいわい騒いで、そんでギャラもちゃんともらえるなんて、なんておいしい仕事なのでしょう。
 世の中そんなに甘くないに決まっていますが、どーせ仕事もなくて暇なんだからいいやと、ついつい甘い言葉に乗ってしまったのです。



1986年10月号表紙


1986年10月号
1986年10月号。巻頭特集はライダーの料理。おもしろくな………それはさておき、名物連載「男のジャーナル」に、後に「カイジ」他で一世を風靡するデビューしたての福本伸行さんが書いてたりします。こっちのほうがすごい……

  
 よく覚えていないのですが、早朝、参加者全員で、大宮だったような気もするけど、東京かもしれない(※東北新幹線の上野開業は1985年、東京延長は1991年なので大宮でも東京でもなく、たぶん上野からの乗車と思われます。どうでもいいことですね。編集部注)から新幹線で仙台に向かいました。景色を眺めながら配られた駅弁を食べていると、世界の車窓からの音楽が聞こえてきそうな、とても快適な取材の始まりでした。

 
 さすがは世界に誇る新幹線、いつもなら車で6時間くらいかかりますが、あっという間に仙台駅に到着し、まずは七夕祭りの見学です。といってもバスが迎えにくるまでの15分ほどですが、夜また見にくればいいやと、アーケード街に飾ってある七夕飾りをチラッと見てバスに乗りました。



写真


七夕祭り
珍しく写真がシートごと残っていました。が、本物のカメラマンであるエトさんが撮影したものがほとんどで、エトさんが写ってるカットはあまりありませんでした。残念。 仙台夏の風物詩、おなじみ七夕祭りのカットもちょっとだけありました。本文にあるように、あとでじっくり見るつもりだったのでしょう。残念無念。

  
 サーキットに着くと、さっそく競技についての説明が始まりました。スケジュールによれば、初日は水泳50m、自転車1.5km、ランニング1kmで、2日目にロード、モトクロス、トライアルとあります。こう見えて小、中学校のランニング大会での優勝経験があり、水泳も得意。自転車も3年間通学していたので脚力には自信があります。しかも高校時代は体操部ですから体力にも自信あり。コースサイドにあるプールで泳ぎ、馬の背から自転車に乗り替えてコースを逆走し、最後はランニングでゴールという、なんてことはない楽勝コース(と思った)。ノープロブレム、何でもこい! です。
 問題があるとすれば2日目のバイク競技。カートコースを使ったYSR50でのミニロードレースと、全日本コースをDT125Rで走るモトクロスは問題ありませんが、トライアルはどうしたものか……興味もなければもちろんやったこともないし、TY250に乗るのも初めてなのです。いまさらどうしようもありません。これ以外はほぼぶっちぎりでしょうから、トライアルは棄権でもいいかなどと不埒に考えておりました。
 それはともかく、タイムスケジュールに肝心のお楽しみ、七夕祭り見学がありません。レース終了後、勝手に行きなさいということでしょうか。しかしSUGOから仙台市内までの足がありません(当時はまだSUGOから市内に行くバスもあったのですが、夜はありませんでした)。ひょっとして、近藤さんにだまされたのでしょうか。ようやく気付きました。七夕祭りは私を釣るエサだったのです。浅はかな私は、まんまとエサに食い付いてしまったのです。これはまだ序の口、このあとお気楽どころか、とんでもない地獄絵図が待っていようとは、微塵も思いませんでした。



1986年10月号


1986年10月号
これが掲載された記事。3人もSUGOまで送り込んでモノクログラビアたったの2ページというコストパフォーマンスの悪さ……そんな時代だったということです。ちなみにレースの2日間の総合成績は出場者17人中、バイト君5位、エトさん9位、Y君12位でした。

 
 説明会が終わるとお昼ご飯です。朝駅弁を食べて新幹線とバスに乗っていただけなのでまだお腹は空いていませんが、出されたら反射的に食べてしまうのが貧乏フリーカメラマンの性。これがさらに惨劇を拡大することになるとは考えもせず、ぱくぱくおいしくいただきました。

 
 食べ終わると休む間もなく開会式です。水着に着替えレースもすぐに始まりました。第一種目の水泳は、泳いでも歩いてもとにかく50mをクリアさえすればOKとのこと。水泳は得意ですから、気まじめにクロールで泳いだのですが、やってみて解ったこと、自信は高校生なのですが(当時27歳)、体重は10キロほど増え、筋力もガタ落ち。泳いでも泳いでも前に進まないのです。ヘロヘロになり途中から平泳ぎにスイッチし、何度も水を飲み、昼飯が逆流しそうになりながらも気力を振りしぼってプールから上がり、あまりの体力の衰えに愕然としながら、ランニング用のTシャツと短パンに着替えました。

 
 記事を読み返すと、ここで靴下を履くかどうか迷ってさらに遅れたようなことが書いてありました。私は某タレントのように素足にシューズを履くことができないのです。本来ならば靴下など無視してすぐにスタートしなければならないのですが、そのまま走ると靴擦れができてしまうし、と悩んでいる間に若者に抜かれてしまったようです。

 
 靴下を履き、取材用カメラをコンパクトにまとめたウエストバックを腰に巻いて自転車置き場に到着すると、そこにあったものはママチャリでした。もちろん変速機のないただのママチャリです。それでも泳ぐよりはましだろうと走り出しました。
 しばらく走るとあることに気付いたのです。ミューの高いロードコースを、ママチャリの細い小径タイヤで走ると、路面抵抗が意外と高く、思ったように前に進まないのです。しかも馬ノ背から逆走する上り坂。バイクならほんの何秒ですが、ママチャリでは……ゼイゼイ青息吐息、再びお昼ご飯が出てきそうです。昼食にほとんど手を付けない人もいました。なるほど、あの時からすでにレースは始まっていたのです。
 水泳でかなり疲れていたのですが(たった50m泳いだだけですが)、「トライアル以外は楽勝、楽勝」と豪語した手前、バイト君と、Y君に負けるわけにはいきません。その一念だけで必死にママチャリのペダルを漕ぎました。心臓はバクバクして、いつ口から飛び出してもおかしくない状態です。トライアスロンに出ている人は、いったいどんな心臓しているのでしょうか。不思議でなりません。

 
 季節は夏、日差しが強くものすごく暑いんです。すでに脱水状態にほど近い汗をかき、白目を剥きながら懸命に立ちこぎしていると、目の前が真っ暗になり意識が朦朧としてきた少し先に、救護用の救急車が見えました。もうヤバイ! 本能的に無意識のうち助けを求め救急車に倒れ込みました。



1日目


1日目
初日のカット。エトさんが写っていたのはプールしか残っていませんでした。2枚目は救急車の中にいたのでしょう。


2日目


2日目


2日目
2日目のカット。前日が辛すぎだったのでことさら楽チンだったことでしょう。

 息ができないほどぼろぼろになり、酸素マスクを付けてもらってなんとか蘇生しましたが、これ以上何もできません。ランニングが残っていますが、ふたたび走ったら必ずあの世へ「かま直」(=蒲田に直行ではなく、かまわず直進の意。某MS誌のMカメラマンの口癖です)していたことでしょう。
 残念ではありますが、命をかけるほどギャラをもらえないので、すんなりリタイア決定。ただし、近藤さんに知られたら何を言われるかわからないので、Y君やバイト君には、業界の先輩という立場を利用して強く強く口止めしておいたことは言うまでもありません。

 
 こうして1日目は終わりました。ちょこっと泳いで、自転車に乗っただけですが、体も心もぼろぼろで、ろくに晩ご飯も食べず早々に寝てしまいました。夜の七夕見学があったとしても、レース同様リタイアしていたに違いありません。
 あまりにも強烈すぎた初日の影響でしょうか、2日目に行なわれたはずの肝心のバイクレースのことは全く覚えていません。ナノで今回はここまでデス。


衛藤達也
衛藤達也
1959年大分県生まれ。大分県立上野ヶ丘高校卒業後、上京し日本大学芸術学部写真学科卒業。編集プロダクションの石井事務所に就職し、かけだしカメラマン生活がスタート。主に平凡パンチの2輪記事を撮影。写真修行のため株式会社フォトマスで (コマーシャル専門スタジオ)アシスタントに転職。フリーになり東京エディターズの撮影をメインとしながらコマーシャル撮影を少しずつはじめる(読者の方が知っているコマーシャルはKADOYAさんで佐藤信哉氏が制作されたバトルスーツカタログやゴッドスピードジャケットの雑誌広告です)。16年前に大分県に戻り地味にコマーシャル撮影をメインに活動中。小学校の放送部1年先輩は宮崎美子さんです。全く関係ないですが。


●衛藤写真事務所
「ぐるフォト」のサイトを立ち上げました。グーグルマップのストリートヴューをもっと美しく撮影したものがぐるフォトです。これは見た目、普通のパノラマですが前後左右上下をまるでその場に立って いる様に周りをぐるっと見れるバーチャルリアリティ写真です。ぜひ一度ご覧下さい!

http://tailoretoh.web.fc2.com/ 

  

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