MBHCC A-6

かつてミスター・バイクの誌上を彩った数々のグラビアたち。

あるときは驚きを、またあるときは笑いを、そしてまたあるときは怒りさえも呼び込んだ、それらの舞台裏ではなにがあったのか?

1980年代中盤から1990年代、メインカメラマンとして奮闘した謎の写真技師こと、エトさんこと、衛藤達也氏が明かす、撮影にまつわる、今だから話せる(んじゃないかと思うけど、ホントはまずいのかも)あんな話、こんな話。どんな話?

第39回 サーカス兄弟とアヒルのカラーページ

 
 今回のお話は1990年7月号、珍しくカラーページでやったFRC(記憶では、最初で最後だと思います)のお話です。

 
 ミスター・バイクの校了が終わった頃、いつものように信哉さんから電話がありました。
「エトー、ゴールデンウイーク何してる?」「今年は仕事がないので家でごろごろしてます。キャンプでも行きますか?」
 当時を思い出すと毎年ゴールデンウイークはAn生さんと富士スピードウェイに(今は名前が違うんでしたっけ?)取材に行くことが恒例となっていた記憶があります。日本GPだったか、カスタムの取材だったか、曖昧にしか覚えてません。鮮明に覚えているのは、毎回帰りは大渋滞で泣きそうになりながら地図を広げて誰も通らないような山奥の道をぬって帰ったことだけです。
「仕事だよ仕事。ページぶんどって来たからよ。しかもカラーだぞ。おめー、カラーでFRCやりたがってただろ」「はあ。で、どこ行くんですか。カラーページになりますか?」「おうよ、利根川行くぞ、利根川。だーっと上流までかっ飛ばして利根川の源流を探しに行く旅だ。距離なげーぞ。一泊しなきゃ行けねーだろうな。テント張るからな。風呂なんてねーからな」
 利根川と聞いても田舎者の私には大利根月夜という聞いたことはない演歌? か、国定忠次の赤城山なんてことしか浮かんでこないのです。「河原を走れるんですか? 怒られないんですか?」「そう思うだろ。出なきゃなんない事になるかもしんねーけど河川敷と土手はバイクは走れっからよー。それとな、今回はターちゃんが一緒に行くから」ターちゃんとは信哉さんの弟です。「ええっー。2人揃ったら最強コンビじゃないですか。ぶっ飛ばすから私なんか置いてけぼりじゃないですか。多分、いや絶対に」「一応、仕事って言ってあるけどあいつ一般人だから撮影のこととかわからねえからな。その辺は釘さしておくから。ぶっちぎることはあると思うけど、絶対巻いたりしねーから。巻いたら仕事になんねーよ」

 
 3台のバイクを積んだスーパーロングハイエースで暗いうちに東京出発、早朝利根川河口に到着。トランポからバイクを降ろしスタートしました(トランポはバイトくんが乗って帰ったと思う)。ここからどうやってどこに行くのか、川に沿ってとは言っても、川がどこを流れているのか地図が頭の中にないのでまったく解りません。どのくらい走るか、どんな道なのかも解りません。もし転倒したらどうしようと、不安を抱えながら黙々と2人について行くしかありません。

 
 河口側からのアプローチなので最初は砂場、ふかふかの砂の道はいきなりの初体験です。ちょっと気を抜くとハンドルを取られそうになりますが、コケるとターちゃんに笑われます。恥ずかしい思いはしたくないという重圧に耐えながらの行軍です。砂は砂利に変わって少しは走りやすくなったのですが、いつもの林道とは勝手が違います。今度は泥道になりました。コケると泥まみれでもっと笑われます。必死で追いかけているとポツポツ雨が降り出しました。ついていくだけで精一杯なのに、雨まで降るとは。カメラが濡れて故障しないかという心配も加わり、コケたくないので直近ばかり見て、遠くを見る余裕などありません。ふと顔を上げると信哉さんが急に方向を変え脇道にそれると目の前に橋が現れました。反対岸に渡って橋の下で雨宿りです。やれやれ。まずはタバコを一服します。なぜわざわざ橋を渡ったのか尋ねました。「川が二股に分かれていてだな、そのまま川に沿って行くと霞ヶ浦の方つれていかれちまうからだ」といわれてもよく解りません。ターちゃんがバックパックからお菓子を出し、ニコニコしながら言いました。「エトーさん、さっきヤバかったんじゃない? 田んぼみたいだったからコケそうになったでしょ?」「それよりカメラがずぶ濡れになって仕事できなくなっちゃうんじゃないかと、そっちが心配だったね」と、虚勢を張っておきました。

 
 2人は上下セパレートのカッパに着替え始めたので私はカメラバックをカバーするポンチョタイプのカッパを上からすっぽり被り、防水パンツを履きました。するとターちゃんがくすくす笑い出し、そのうち耐えきれなかったのか腹を抱えて大笑いをするではないですか。「何がそんなにおかしいんだよ」
「おにーさん。俺、おかしくてどうにかなりそうだよ」明らかに私を見ています「いくらエトーでも、いきなり人様を見て笑ったら失礼だろうが」「私どっか変ですか? 何か顔についてますか」「おにーさん、よく見てみなよ。エトーさんの格好。子供の頃少年マガジンでやってたジョージ秋山のマンガに出てくるデロリンマンに、そっくりでしょ。そう思ったら、笑いが止まらなくなっちゃってさー。ごめんね。エトーさん」ポンチョを着て笑われるとは思いませんでした。
 サーキットではほとんどのカメラマンはポンチョを愛用しています。私も雨天撮影の時はほとんどポンチョタイプのカッパを着用していました。このポンチョは実家がカッパ屋(とみんなは言っていたが、真実かどうか定かではありません)のE本くんが当時5000円(値段は高いか安いか、それとも適当なのか、未だに解りませんが、ETOカッパの10倍です)で世話してくれたものです。今でも車のどこかに積んであるはずです(多分。最近広げた記憶はありませんから、さすがに腐ってるかもしれません。そのうち見てみます)。「そういわれると、確かに、デロリンマンだな。今まで撮影で雨降ってカッパ着ることなんてなかったからな。初めて見たなデロリンカメラマン」と今度は2人で笑い転げました。「そんなにおかしいですか? 今まで言われたことがなかったのに」ちょっとムッとしましたが、サーキットのカメラマンみんなデロリンマン兄弟じゃないかと思うと、自分でもおかしくなって笑いがこみ上げてきました。
 しばらく走ると雨は上がりました。「おにーさん、雨止んじゃったよ。デロリンマンさんとはお別れだね。はははー」デロリンマンと呼ばれなくなると思うとほっしました。が、その後何年間もずっと雨が降るたびにデロリンマンの話を思い出しては信哉さんに笑われました。

 
 雨上がりの濡れている土手道を2人は結構な調子で飛ばし出します。置き去りにならないように、なんとかついて行くのですが、とてつもなく速いのです。こっちは大きなカメラバックを背負ってるので、ストレートとは言えデコボコ道ではバランスが崩れてコケないように走るだけで必死です。
 どんどん離されていくとコンクリートの土手道になりました。すると2人はスピードを落としました。信哉さんは状況がヤバくなりそうなときは、突然スローになるのです。動物的なカンでしょうか。調子に乗って追い抜いたりすると大変な目に遭います。
 先を見ると水門がありました。目の前には20センチ四方のブロックがタイヤがすっぽりはまりそうな間隔で敷き詰められています。深さも20センチ位あるでしょうか。気を緩めるとタイヤが溝にはまってコケそうで地獄の針の山に見えました。
 2人はにすいすい走り抜けましたが、躊躇していると「エトー。ゆっくりだとかえってあぶねーぞ、ハンドル取られたらコケるぞ。コンクリートだから痛てーぞ。下手すると骨折するぞ。さーっと抜けちまえば大丈夫だよ」「そうだよ、エトーさん。さーっと行っちまいな! さーっと。顔打ったら歯がボロボロ折れちゃうよ」などと、2人してやさしい言葉の終わりに怖いことを付け加えます。

 
「おーい、早く来いよー」「エトーさん、がんばれー」と叫ぶ2人を見ていたら、私の郷里、大分の別府にあるラクテンチという遊園地を思い出しました。そこの名物がアヒルの競争です。8羽立てのアヒルの競争の1着を100円の投票券を買って当てて、しょぼい賞品がもらえるというたわいもないアトラクションなのです。競争前にアヒルを歩かせます。競馬で言うパドックみたいなものですが、その時係のおじさんが「止まれー、前に進め、選手。よーく顔を見てもらえ」などと言うのです(「ラクテンチ アヒルの競争」で検索してください。動画があります)。あの名調子を思い出しました。信哉さんとターちゃんがお客さん。私はアヒル。アドバイス通りにさーっと走ると、うまく通過できました。

 
 ほっとする間もなく、次は水門を避けるためにコンクリートで固めた土手の斜面を走るのです。うっすらとコケでも生えているのか黒い部分が所々あって滑りそうで不気味です。サーカス兄弟はいとも簡単に抜けました。が、バランスを崩して川側に傾くと水面に真っ逆さま、土手側に倒したらそのままズルズル滑って水面へ。下手にスピードを上げるとウイリーしてひっくり返りって水面へ。文字通りどちらに転んでも水面と、いつものように悪いことばっかり考えていたら、身体が動かなくなりました。「大丈夫だって、ブロックタイヤを信じろ! ここもさーっといっちまえ」「そーだよ、エトーさん、すーっと行っちまいな」
 再びアヒルおじさんの名調子が蘇ります。

 
 アヒル気分でなんとかクリアし、撮影をしながら川を上っていくとあっという間に日が暮れようとしています。一旦川から出て食堂で本日最初にして最後の飯を食べてキャンプの準備です。いつもならテント張ってすぐ酒盛りが始まるのですが、3人ともくたくたで、あっというまに寝てしまいました。こういうことはかなり珍しいのです。アヒルの私はともかく、信哉さんもですから、どれだけ激しい走りだったのか解っていただけたでしょう。

 
 翌朝出発すると、信哉さんはいきなり土手を駆け上がり(記事と違うのですが、私の記憶では)途中で悲鳴を上げて倒れ込んだのです。またいつもの冗談かなと思ったのですが、なかなか起き上がりません。心配になって土手を登っていくと「杭に左足ぶつけちまった。スッゲー痛え〜っ」と苦しそうです。草に隠れていたコンクリートの杭とステップの間につま先を挟んでしまったようでした。「ちょっと、休ませてくれ。そのうち、痛み引くだろうから」と20~30分休んで、だいぶ痛みも引いたからと立ち上がろうとしたのですが……
「だめだ、立てねえ。左足がむちゃくちゃ痛え〜っ」信哉さんがこんなに痛がるのですから、そうとう痛いのです。さすがにターちゃんも「おにーさん、病院行くかい?」と心配そうでしたが「といっても連休中だし、朝も早いからまだ開いてないか」とそれほど心配していないようにも見えます。信哉さんが「大丈夫だからよ、木でも鉄でもいいから棒を探してくれ」というので2人で河原を探し、ターちゃんが木の棒を拾って来ました。杖代わりなのかと思ったら「おう、その棒いいな。左足先動かねえから、ハンドシフターにしようと思ってな。ターちゃん、それギアペダルにくくりつけて作ってくれ」
 ターちゃんは車載バックから工具を出し、ハリガネを使って器用に即席ハンドシフトをあっという間に作ってしまいました。「エトー、1人で立てねーから肩貸してくれ」とバイクに跨らせたら「心配すんな。オーシ、出発だ」と、何事も無かったように走り出しました。ほんとにあきれるしかないすごいサーカス兄弟です。



1990年10月号表紙
1990年7月号。表紙はブームを巻き起こした空冷ネイキッドのナナハン版のスクープです


1990年7月号


1990年07月号


1990年7月号


1990年7月号


1990年7月号


1990年7月号


1990年7月号
今回のネタ元、最初にして最後の? カラー版FRCです。カラーなのでいつもより増ページ。

  
 今日は昨日とは違っていい天気です。どこかでキメ写真(メインカットとかトビラカット)を撮らねばなりません。しばらくすると小山がありました。「信哉さん、こんなときになんですが、キメとか走りはどうしましょう。やれそうですか」「おう、この小山で撮ろう。2人同時にジャンプしてるやつ。カッコいいだろう」「足は大丈夫ですか」「何回もできねーから、エトー、一発で決めてくんねーか?」普通は何回かやるのですが、そんな贅沢は言えません。撮れと言われれば撮るのがプロ。「わかりました、一発でやりましょう。ターちゃんタイミング合わせてお願いしますね」「じゃあ、おにーさんに合わせるから」と走って行きました。カメラアングルを決めて手を振って合図を出します。土煙を上げて走ってきた2台はタイミングよくジャンプしてくれました。息がぴったり、すごい! やっぱりサーカス兄弟だと思いました。

 
「信哉さん、目的地はどこですか?」どこまで走るのか、ちょっと不安になったので休憩した時に聞いてみました。「おう、最初は奥利根湖かと思ったが、地図見てたら谷川岳に決めた」「頂上まで行かないですよね」「あたりめーだろ。行けなくなる所が終点だ。行ける所まで行くぞ」
 写真を撮りながら谷川岳を目指しました。頭の中に地図がないので、ただひたすらついて行くだけでしたが。ひたすら走って谷川岳のロープウエイのりばに到着しました。このままロープウエイで天神平まで行こうかという話も出たのですが、それじゃ、バイクの写真が撮れないじゃないかということで再び走りました。そしてついに道がなくなり、雄大な谷川岳の残雪が見える場所にたどり着いたのです。そこで引きの写真を撮った後、寄り(アップ)の写真も撮りました。ページの最後に掲載されているその写真で信哉さんは左足を石に載せています。カッコつけているのではなくて、そうしないと立つことができないような状態だったのです。本当はずっと痛かったのに、最後までやめようと言わず走ってくれたのです。凄い精神力です。

  
 いつのいまに連絡してあったか覚えていませんが、それほど時間がかからないうちに編集部からスーパーロングが迎えに来ました。車に乗り込むと同時に信哉さんは安心したような顔で言いました。「おうNよ(バイト君)、わりーけどちょっくらコンビニ寄ってくれ。エトー、酒盛りしながら帰ろうぜ」「え! お酒なんか飲んで大丈夫なんですか? 痛くないんですか?」「痛てーよ。でも、おもしろい経験してすぐに乾杯できないなんて、しかも東京までお預けなんてつまんねーだろ、なっ!!」
 コンビニで大量のビールとつまみを買い、すぐさま乾杯。東京まで宴会は続いたのでした。信哉さんのスケールの違いを改めて実感した1泊2日のFRCでした。


衛藤達也
衛藤達也
1959年大分県生まれ。大分県立上野ヶ丘高校卒業後、上京し日本大学芸術学部写真学科卒業。編集プロダクションの石井事務所に就職し、かけだしカメラマン生活がスタート。主に平凡パンチの2輪記事を撮影。写真修行のため株式会社フォトマスで (コマーシャル専門スタジオ)アシスタントに転職。フリーになり東京エディターズの撮影をメインとしながらコマーシャル撮影を少しずつはじめる(読者の方が知っているコマーシャルはKADOYAさんで佐藤信哉氏が制作されたバトルスーツカタログやゴッドスピードジャケットの雑誌広告です)。16年前に大分県に戻り地味にコマーシャル撮影をメインに活動中。小学校の放送部1年先輩は宮崎美子さんです。全く関係ないですが。


●衛藤写真事務所
「ぐるフォト」のサイトを立ち上げました。グーグルマップのストリートヴューをもっと美しく撮影したものがぐるフォトです。これは見た目、普通のパノラマですが前後左右上下をまるでその場に立って いる様に周りをぐるっと見れるバーチャルリアリティ写真です。ぜひ一度ご覧下さい!

http://tailoretoh.web.fc2.com/ 

  

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●メール tatsuyaetoh@gmail.com

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