順逆無一文

第54回『法律という名の道具』

 人生無駄に60年も生きていると、並大抵のことでは驚かなくなってしまう。感性の低下というのでしょうか。それとも単に心が図々しくなってしまってきてしまっているのでしょうかね。
 
 魑魅魍魎界に一足突っ込んだ老獪にとっても驚きのニュースがありました。
 
 なんと、センターラインをはみ出して突っ込んできたクルマに衝突された側なのに、突っ込んできたクルマの乗員が負傷死亡した事に責任をとりなさい、といわれてしまったというのです。突っ込んでくるような側にまれに見られる、訳の分からぬ理不尽な難癖や、ゴネのたぐいではありません。
 
 歴とした日本国の正式の裁判所が出した判決だというのです。
 
 2015年4月17日付の福井新聞のWEBサイトによれば…

 
『「もらい事故」でも賠償義務負う 福井地裁判決、無過失の証明ない
 
車同士が衝突し、センターラインをはみ出した側の助手席の男性が死亡した事故について、直進してきた対向車側にも責任があるとして、遺族が対向車側を相手に損害賠償を求めた訴訟の判決言い渡しが13日、福井地裁であった。原島麻由裁判官は「対向車側に過失がないともあるとも認められない」とした上で、無過失が証明されなければ賠償責任があると定める自動車損害賠償保障法(自賠法)に基づき「賠償する義務を負う」と認定。対向車側に4,000万円余りの損害賠償を命じた。
 
遺族側の弁護士によると、同様の事故で直進対向車の責任を認めたのは全国で初めてという。
 
死亡した男性は自身が所有する車の助手席に乗り、他人に運転させていた。車の任意保険は、家族以外の運転者を補償しない契約だったため、遺族への損害賠償がされない状態だった。対向車側は一方的に衝突された事故で、責任はないと主張していた。
 
自賠法は、運転者が自動車の運行によって他人の生命、身体を害したときは、損害賠償するよう定めているが、責任がない場合を「注意を怠らなかったこと、第三者の故意、過失、自動車の欠陥があったことを証明したとき」と規定。判決では、対向車側が無過失と証明できなかったことから賠償責任を認めた。
 
判決によると事故は2012年4月、あわら市の国道8号で発生。死亡した男性が所有する車を運転していた大学生が、居眠りで運転操作を誤り、センターラインを越え対向車に衝突した。
 
判決では「対向車の運転手が、どの時点でセンターラインを越えた車を発見できたか認定できず、過失があったと認められない」とした一方、「仮に早い段階で相手の車の動向を発見していれば、クラクションを鳴らすなどでき、前方不注視の過失がなかったはいえない」と、過失が全くないとの証明ができないとした。

』(福井新聞WEBサイトより)

 記事をどう読んでみても、普通のドライバーが自車線を進行中に、加害者側のクルマが居眠り運転をし突然突っ込んできた、という良くある“もらい事故”の典型的事例と読めるのだが。これで、どこをどう考えるとぶつけられた側に賠償責任が発生するというのだろうか。
 
「早い段階で相手の車の動向を発見していれば、クラクションを鳴らすなど…」のくだりなど、実際にバイクやクルマに乗る人間ならこんな悠長な言葉は出てこないはず。追突した側が「お前がブレーキを踏むからぶつかったんじゃないか。お前のせいだからな」などと自分の車間距離不保持と、前方不注意を棚に上げて怒鳴り散らす自己中ドライバーと大して変わらない。「お前が早く気が付いて、クラクションならさなかったのが事故の原因だ」と。
 
 まともな頭で考えれば、現実に衝突してしまっているのだから、飛び出してきた車両を避ける間もなかったというのが分かる。対向車線からクルマが飛び出てきたら、その後は、まさにあっという間にガッシャーンだ。
 
 子供の頃、法律が市民を、個人を、人間を守ってくれる、と本気で思っていた。法律はそのためにあり、法律は誰にとっても平等であり、法律を守ることで社会が成り立っている、と。
 
 今時、そんな暢気なこと思っている人間はいないだろう。実体は、法律とは“社会”を守るものであり、法律とは利用するものであり、法律とは他者と争うための道具、というわけですよね。社会を守るためなら、個人の権利なり、尊厳などどこ吹く風、法律を知るものが法律を知らざるものを搾取する。
 
 もともと、裁判など、法律を操る人間次第でいかようにも姿を変えてしまう存在なのはご存じのはず。たまたま巡り会った裁判官と検事、そして弁護士。それぞれの技量には当然優劣があり、異なる人間性があり、最終的にはそれぞれの能力次第で、判決が有罪であったり無罪となる。そんな人間様の都合で180度正反の判決ですら出てしまうぐらいだから、有能な弁護士を雇える余裕が有れば裁判を有利に進めることも可能で、国選弁護士しか付けられないようなら、通り一遍の判決に甘んじるしかない。
 
 法律の運用イコール金次第といって誰が否定できるのだろう。
 
 話が飛んだが、この判決などまさにうってつけの例だ。金科玉条として思ってきた“もらい事故”だから責任はない、などの“常識”は一介の裁判官の存在であっという間に吹っ飛んでしまった。我が国は三審制だから大丈夫、などと脳天気に思っている人間に問いたい。では、高裁、最高裁で同じような思考を持った裁判官がたまたま組み合わされる恐れは全くないのか、と。
 
「警察官も人の子」じゃない、「裁判官も人の子」だ。地裁ならまだいいと考えているのだろう。自分に都合の良いように法律を「使いまわす」ということのいい加減さを身をもって示してくれても、まだ上があるから。しかしこれが最高裁判決となってしまった場合は、もう取り返しが付かない。裁判員裁判の死刑判決ですら判例、前例至上主義の最高裁でつぎつぎと覆される。前例にないような凶悪な犯罪が多発することから、市民感情に即した判決を出すべくスタートしたはずの裁判員裁判が、すっかり形骸化されてしまっている。
 
 法律も人次第。法律が人を守ってくれるんじゃない。人が法律の真意をくみ取って行く努力をしなければ、ただのゲーム・マニュアルといっしょになってしまう。
 
(小宮山幸雄)


小宮山幸雄小宮山幸雄

“雪ヶ谷時代”からMr.BIKEにかかわってきた団塊ライダー。本人いわく「ただ、だらだらとやって来ただけ…」。エンジンが付く乗り物なら、クルマ、バイクから軽飛行機、モーターボートとなんでも、の乗り物好き。「霞ヶ関」じゃない本物!?の「日本の埋蔵金」サイトを主宰する同姓同名人物は、“閼伽の本人”。 


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