MBHCC A-6

かつてミスター・バイクの誌上を彩った数々のグラビアたち。

あるときは驚きを、またあるときは笑いを、そしてまたあるときは怒りさえも呼び込んだ、それらの舞台裏ではなにがあったのか?

1980年代中盤から1990年代、メインカメラマンとして奮闘した謎の写真技師こと、エトさんこと、衛藤達也氏が明かす、撮影にまつわる、今だから話せる(んじゃないかと思うけど、ホントはまずいのかも)あんな話、こんな話。どんな話?

第42回 ダ・ダーン! ぼよよん

 
 今年の梅雨は長いですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。そんな梅雨空をスカッとさわやかに突き抜ける、スカッドミサイルのような話を書こうと努力したのですが、梅雨時だけに筆も湿りがち。ということで、ぼんやり思い出した1991年9月号の表紙ネタをお送りいたします。前回同様、編集担当はたしかO合さんでした。

 
「あのさー、エトさん、O合です。んにゃ(O合さんの口癖)、表紙の撮影お願いしたいんですけどスケジュール空いてる?」
「お仕事ありがとうございます。突然聞かれても急には答えられません」
 システム手帳は真っ白ですが、一応忙しいフリをします。このお客様対応は今も変わりませんが。
「とはいってもスケジュールは相手次第なんだけどね。でもさ、一応エトさんのスケジュールも聞いておかないと。で、いつごろヒマ?」
 いつ何時でもヒマだという事は周知の事実ですが「今の所、来週なら空いていないこともないです。ですが早く決めていただかないとすぐに他の仕事で埋まってしまうこともひょっとしたらあるのかもしれません」と、微妙な見栄を張っておきました。
「あ、そ。来週ならいつでもいいのね。分かった。んにゃ」
「ところで何を撮るんですか」
「実は俺もよく知らないんだけどさあ……外人の女子プロレスラーで、最近栄養ドリンクのコマーシャルに出ているらしいんだけど、テレビ見ないからよくわかんないんだよ」
 表紙担当編集者の弁と思えない、いい加減かつ無責任きわまりない、ではなく、小事にとらわれないスケールの大きな発言に思わず腰が抜けそうになりましたが、これとていつものことと平静を装いました。
「ひょっとしてダ・ダーン! ボヨヨンの人じゃないですか」
「何それ有名なの? プロレス分かんないんだけど」
「えー知らないんですか、ジャングルの滝からターザンみたいなスタイルで筋肉ムキムキのオネーさんが ”ダ・ダーン!”とか言いながら出てくるやつですよ。デッカイおっぱいプルンプルンさせながら、ボヨヨン、ボヨヨンとか言っちゃって。とにかく凄いコマーシャルですよ。助平なO合サンなのに見た事ないんですか? 本当ですか? 嘘でしょ? 信じられないなあ」
「とりあえずどんな表紙にするか打ち合わせしたいから、明日編集部まで来てくんない。夜7時くらいには出社してるから」
 私にとってO合さんは行動がつかめない謎の人でした。昼間明るい時間編集部にいたことはありませんでした。確か一度結婚していたはずですが、この頃すでにしていたのか、すでにバツイチ後だったのか、O合さんの新婚生活にまったく興味がないのでまったく覚えていませんが、このだいぶ後、新宿2丁目にあるお鍋や、お釜や、芸さん、そして一般人も集まる居酒屋でO合さんの元奥さんにばったり出会ったという、皆さんにも私にもまったくどうでもいいような事もありました。

 
 翌日夜7時頃編集部に参上しましたが、O合さんはいませでした。ソファーに寝転んでだらだらしていると8時ちょっと前にO合さんが出社? してきました。
「ごめーん待ったー。出がけにさあ、ちょっとさあ、まあいいや。ついでに食堂でもうちょっと待ってね」と机に向かって電話をかけ始めました。時間にルーズでいつでもこんな感じだったことをだんだん思い出して、今更ですがちょっと腹が立ってきました。



1991年9月号


1991年9月号
1991年9月号の巻頭は鈴鹿8耐。レプリカブームに陰りが見え始めた時期でしたが、まだまだ8耐人気も続いておりました。速報は全凸という素人作業の離れ業で入稿のため、書体や字間などがなんか変。これもアナログ時代の遺構でしょう。宇川さん、若いわ〜。

 
 腹を立ててもしょうがないので、前に書いたような気もしますが、初代ミスター・バイク編集部があった東京エディターズの社屋についてちょっとだけご説明させてください。
 東京都大田区南雪ヶ谷にあった、なんと9Kという古大民家でした。戦前に建てられた木造2階建てで、編集部というより友達の家みたいでした。遊びに来て泊まっていく強者読者もいました。お屋敷は高台にあり入口部分は駐車場になっていて、その奥にある石段を登りきると滝のある大きな庭がありました。大きな玄関を入ると黒光りする廊下と階段、左手が2間をぶち抜いた縁側付きの編集部でした。いかにも後付の安っぽいドアを開けると、一番手前がゴーグル編集部、次がミスター・バイクBG、一番奥がミスター・バイク編集部。各編集部は机が6個くらいでひとつの島になっていて、縁側には庭に背を向けて編集長の机がにらみを利かせていました。
 20個くらいの机、来客&うたたね用のソファー、ロッカー、本棚などが入っていたのですから、かなり大きな部屋でした。それでも後に人が増えると手狭になったようで編集長は2階に移動し、その編集長室は職員室と呼ばれていました。
 一番奥には大型のストーブが置いてある床の間があり、その横のふすまを開けると元女中部屋? の小さな部屋に二段ベットがある仮眠室。その横には何かの部屋を改造した暗室、その隣がトイレと浴室で、トイレの小便器の前には「覆水盆に返らず」の英語バージョンが貼ってありましたっけ。当時は意味がよく分かっていませんでしたが。浴室の脱衣場には壊れたピンボールマシンまで置いてありました。

  
 玄関正面の階段は途中に踊り場がある大きなもので、3人くらい並んで登れました。階段を上ると右が編集長室(その前はモータープランニングという、トンネル会社じゃなくて、別会社の事務所になっていました)。左がレイアウト室、その奥は奥の院と呼ばれたバイト用の作業室がありました。その向かいが旧社長室だった経理室で、当時、私からすればご年配の婦人と私より5歳くらい年上のオネーさんがいらっしゃいましたが、ほとんど用事がないので中がどーなっていたのかは知りません。

 
 一階に戻って玄関へ。右側が応接室でBSAだかのクラッシックバイクが置いてありました(後に四輪雑誌タルガの編集部になりましたが、かつてラジオマガジンという芸能雑誌を編集していた時期があり、この応接間に来たアイドルやらミュージシャンもいました。変な古い大きな民家でインタビューされた記憶のある芸能人の方、それが東京エディターズです)。昼夜問わずに薄暗い廊下を真っ直ぐ進んで行くと突き当たりがホヤ某がボヤ騒ぎを起こした台所で、日本に数台しかないらしい戦前製のGEの冷蔵庫がありました。右は最後の晩餐に出てくる大きなテーブルの1/8くらいの、それでも大きな立派なテーブルがでーんと置いてある食堂でした。

 
 ここまで読んだだけで見取り図が思い浮かぶあなたは、まちがいなく天才か、人生まちがいだらけの関係者。そうではないほとんどのみなさまのために見取り図を添付させていただきましたので御参照いただければ幸いです。


雪が谷


写真


写真
初代編集部最後の日。ミスター・バイク1996年9月号グラビアで記事になっていました。下左は引っ越し荷物を運び出した編集室最後の姿。右は食堂。みんな若いですなあ。(1996年ころ)

見取り図
末期の初代東京エディターズ見取り図。①玄関(かなり広い)②応接室(一時期タルガ編集部。誰もいないのに夜中によく物音がしたいわくつきの部屋。見える人は近づかなかった)③食堂(このコラムにもよく登場する。箸を使って食べるものは編集部では禁止というルールがあったので店屋物はここで食べる。普段は会議室になっていた)④食器棚と神棚⑤台所⑥電話室(でかいFAX機が置いてあった)⑦浴室⑧脱衣場&洗面所⑨小便器⑩大便器(洋式)⑪暗室⑫女性用便所⑬仮眠室⑭ゴーグル編集部⑮BG編集部⑯ミスター・バイク編集部⑰PC机(PC98マシンだったかな? ほぼ四川省というゲーム専用機)⑱なぜか壁に向かいぽつんと離れ小島になっていたO合机⑲ソファー⑳縁側(ここに並んでいるのが各編集長の机)㉑床の間(見える人にはあの世への階段がつながっているのが見えたらしい)㉒物置(無造作に写真や資料が山積みされていた。引っ越しの時にほとんどが廃棄されてしまった。だから昔の写真はほとんど残っていない)㉓駐車場(無理すれば5台停められた)㉔庭(けっこう広い。バーベキューや園遊会をやったら、近所の人に通報されおまわりさんが来たこともあった)㉕滝のある池(水を入れると会社が傾くといわれていたのに、某氏はお湯を入れ露天風呂撮影をして社長に死ぬほど怒られた)㉖屋根付きのバイク置き場(20台くらい停められるので、ほとんど不動車のたまり場になっていた)㉗謎の小屋(座敷牢? 立ち入り厳禁だったので詳細は不明)㉘怪しい裏庭(日が当たらず石をどかすと見たこともないような虫がうごめいていた。確か井戸もあったような)㉙編集長室(それまではモータープランニングの事務所)㉚レイアウト室(レイアウターさんが来てここで仕事をする。某レイアウターさんの息子はいつもマンガを読んでいた)㉛奥の院(某バイトくんは1週間泊まり込みで仕事をし、そのせいかどうか全身じんましんだらけで転がっていた。別名隔離病棟)㉜経理室(一番縁のなかった部屋。かつての社長室。社長さんは近所のマンションに引っ越した)

  
 話を元に戻します。食堂で10分ほど待ちました。
「んにゃ、ごめんね〜電話長引いちゃってさぁ。撮影日決まったよ。来週ね。スケジュール大丈夫でしょ」
「ちょっと待ってください。確認します」と真っ白なシステム手帳をパラパラ見てから、おもむろに「ええと、大丈夫で〜」と答える前に「ええとね、四谷の喫茶店で待ち合わせなんだよねー。軽くインタビューしてから撮影ね。その後試合があるみたいだから、撮影はほとんど時間とれないんだけど、その辺でチャチャッと撮ってくれるよね」
「表紙ですよ? チャチャッでいいんですか?」
「エトさんなら問題ないですよ、んにゃ」
「はい。やれといわれれば……どんな絵にしますか。何かアイデアありますか」の「何か〜」を言い終わる前に「エトさんにすべてお任せしますよ」と迷いもなく即決即答。なにも考えていないような答が返ってきました。

 
「身長はどのくらいでしょう。外国人プロレスラーだからかなりデッカいんじゃないですか。もしかしたら私よりでかいとか。バイク絡みで撮影しますよね」「そうだなあ、一応バイク雑誌だし、アメリカ人だし、アメリカンでいいか」撮影車についても特に深く考えてないようでした。

 
「バイクウエアとか着せたら誰か分からなくなりそうなので、コマーシャルの衣装着てもらった方がいいんじゃないですか。バイクは50ccの小さいので、バイク抱えたりすれば彼女の大きさが〜」「ああ、そうね、そうしよう」やっぱりなにも考えてないようでした。

 
「撮影場所はどうします。あの近所で撮影できるのは、新宿通りの御苑方向交差点近くの歩道くらいですよ。あえて人払いとかしないで、通行人の目線とか表情写し込んだ方がおもしろい絵が〜」「ああ、そうね、そうしようか。んにゃ」全くもって、一事が万事、万事が一億事、全てこの調子でした。

 
 撮影当日、約束の時間に編集部に行くと、すでにO合さんは来ていました。
「エトさん、ホンダさんからバイク借りといたからね。小さくていいでしょ」ハイエースにはモンキーバハが積み込まれていました。なるほど、なにも考えていないように見えて、ちゃんと考えているように見えてしまいました。O合さんにしては上出来なバイクセレクトでした。
 喫茶店に着くとすでに女子プロレスラーさんがいらっしゃいました。2メートル近くあるんじゃないかと思っていましたが、実際は私よりちょっと低い173cmくらいでした。しかしそれでも日本人女性と比べればでかいです。勝手にCMの衣装で来るかと思いこんでいましたが、普通に上下ジーンズのウエスタンスタイルで、なぜかちょっとガッカリしました。そんなカッコで電車に乗ってくるわけないんですよね、当たり前ですが。

 
「ハローナイスチューミーチュー」と挨拶をすると「コンニチハ、キョウハヨロシクオネガイシマス」と返されました。
「日本語分かりますか?」と聞くと「スコシダケ」というので負けないように「アイ、スピーク、イングリッシュ。ア、リトル」と返しました。いったい何の会話でしょう。でも、外人さんの撮影といっても難しい要求をしなければ、「スマイル」「グーッド」「ライトサイド」「レフトサイド」「アップ、ダウン」くらいで何とかなってしまうものです。ただしカメラマンになって外人モデルをなんとかしようと思っている向上心の強い方は、もっときちんと英語の勉強をしましょう。きっと広尾あたりで大きな後悔をしますから。

 
 話は脱線しますが(もう脱線していますけど)、アシスタントだった頃、スタジオでものすごくきれいな外人女性モデルさんを撮影した後、バイクで広尾駅まで送る事になりました。ヘルメットが一つしかないので「アーユーオーケー?」とノーヘルのジェスチャーをしてオネーちゃんを後ろに乗せました(←このまま走り出すともちろん違法行為ですから、私はエンジンをかけずバイクをいっしょうけんめいに押しました←信じるか信じないかは貴方次第です。わたしだったらもちろん信じませんが)。バイクの後ろで金髪美人がキラキラ輝く髪をなびかせる様は、それはもう道行く人の目をめいっぱい引きつけたことはいうまでもありません。私は人生最高の優越感に浸って走りました(←もちろんバイクを押して←果たして髪がたなびくほどのスピードで押せるのか)。広尾交差点で彼女を降ろすと「サンキュー、バーイ」と手を振りながら地下鉄の駅に消えて行きました。精神的にも肉体的(主に下半身)にも絶頂期を迎えた私は、お別れのキスでもしてくれたらここでこのまま死んでもいいくらいの昂ぶりでした(もしもほんとにチューしてくれたら、もっといろいろなことをしたくなって死んでも死にきれないでしょう)。もっと語学力があったら、もっと押しの強い人間だったら、きっと私の人生も変わっていた事でしょう。

  
 こんな事を書いていたら、もうひとつ思い出しました。某社というか弊社というかの慰安旅行にくっついてペナン島に行ったときの事です。
 ホテル前の屋台にかわいい子がいたので何とかならないかと通っていたのですが、ある日かっこいいお帽子を被った英語ベラベラの日本人紳士が鳶のごとくさらっていきました。件の紳士が後に教えてくれた言葉は今でも覚えています。オネーちゃん曰く「あの人は背が高くてカッコイイけど、目が何時もキョロキョロして落ち着きがない」と。
 その旅行ではいろいろなことがありました。若い男2人もなんとかプールサイドでオネーさんをゲットしようと必死に努力していた事。その上司がアメックスのゴールドカードで買い物しようとしたら現地の人がゴールドカードを知らなくて、本物かどうか調べに行った事。レストランで出た緑色の唐辛子を「辛くない」と食べたら、拍手を貰ったので調子に乗ってばくばく食べ汗が滝のように吹き出していた東北出身のカメラマンの事。コースが競馬場の内側にあるゴルフ場は深いブッシュだらけで、打った球がすぐにロストしてしまい、ブッシュに入った球に数人の子供が群がり、球を見つけると売りにくる事。で、「それ今打った私の球なんですけど」と言ってみたところで通じなかった事。さらに打った球が民家に飛び込み、蜂の巣をつついたような悲鳴が響き渡った事等々。そう、あれはサッカーのトヨタカップで雪が降った時の出来事(1987年?)だったような気がします。
 そんな事はどうでもいいですね。話を戻しましょう。

 
 O合さんがインタビューをしている間に付近をロケハンし、交差点手前の歩道が少し広がり始めた辺りで撮影する事に決めました。新宿通りの反対側に交番があるのですが、離れているので分からないだろうと。
 喫茶店に戻ると、通訳さんを介したインタビューはすでに終わったようでした。撮影場所をO合さんに伝え、先に1人で現場に向かい機材をセットして煙草を吸いながら待っていると、突然「ダ・ダーン! ボヨヨン」と目の前にオッパイブリブリのオネーさんが現れました。いつの間にか着替えたようで、コマーシャルで見るより何倍もでかく見えました。筋肉も凄いし、なによりおっぱいが困るくらいでかいのです。目がオッパイから離れないのです。迫力十分です。歩道にいきなり筋肉モリモリの外人女性が現れたので、サラリーマンや先にある丸正(スーパー)から出て来たおばちゃんがチラ見します。当たり前です。そんな事は気にせず、逆に映り込んでほしかったので、バイクをセットしてポーズをしてもらい、「スマイル、 グードッ、 グードッ、スマイル! ストロングポーズ、プリーズ、オーケイ、グードッ」を連発しながらどんどんシャッターを切りました(とはいえ、デジタルではなくフィルムですからせいぜい1ロール36枚くらいです)。
 リクエスト通り5分くらいで撮影は終わらせました。騒ぎになる前に、反対側の交番のおまわりさんが飛んでくる前に、ささっと撮影したのがこの表紙です。なかなか迫力のある絵になったと思うのですが、本が出る頃には「ダ・ダーン! ボヨヨン」のブームも下火になってしまい、特に反響もありませんでした。O合サン、やっぱりなにも考えていなかったようです……おしまい。



91/6


91/6
これがその表紙です。5分で撮ったようには見えないでしょ? バイク小さすぎましたか?  ちなみにO合さんが喫茶店でインタビューした記事は、カタログ号のトビラのわずか数行のみ……

衛藤達也
衛藤達也
1959年大分県生まれ。大分県立上野ヶ丘高校卒業後、上京し日本大学芸術学部写真学科卒業。編集プロダクションの石井事務所に就職し、かけだしカメラマン生活がスタート。主に平凡パンチの2輪記事を撮影。写真修行のため株式会社フォトマスで (コマーシャル専門スタジオ)アシスタントに転職。フリーになり東京エディターズの撮影をメインとしながらコマーシャル撮影を少しずつはじめる(読者の方が知っているコマーシャルはKADOYAさんで佐藤信哉氏が制作されたバトルスーツカタログやゴッドスピードジャケットの雑誌広告です)。16年前に大分県に戻り地味にコマーシャル撮影をメインに活動中。小学校の放送部1年先輩は宮崎美子さんです。全く関係ないですが。


●衛藤写真事務所
「ぐるフォト」のサイトを立ち上げました。グーグルマップのストリートヴューをもっと美しく撮影したものがぐるフォトです。これは見た目、普通のパノラマですが前後左右上下をまるでその場に立って いる様に周りをぐるっと見れるバーチャルリアリティ写真です。ぜひ一度ご覧下さい!

http://tailoretoh.web.fc2.com/ 

  

●webサイト http://www1.bbiq.jp/tailoretoh/site/Welcome.html
●メール tatsuyaetoh@gmail.com

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