ワシらは権力が嫌いじゃったぁ。その権力を嵩に着るヤツらは、もっと許せなかったがじゃあ。
体制権力側は「交通安全」「人命尊重」という安っぽい大義名分の元に、「三ナイ運動」を推し進めておったがじゃあ。
いや、それ以前は「4プラス1ない運動」──すなわち、
1. 免許を取らない。
2. オートバイを持たない。
3. オートバイを運転しない。
4. オートバイに乗せてもらわない。
──の高校生を対象にした事項の他に、
5.オートバイを買って欲しいという子供の要求に負けない、
という項目を付け加えたのじゃったぁ。
ワシらは、突然燃え上がった「高校生免許取得規制」に待った!をかけるために立ち上がったのじゃったぁ。
そして、昭和55年(西暦1980年)の9月某日、事件は起こったがじゃあ。
世に言う、「神奈川県庁バイク規制音頭」事件じゃ。
……って、岩崎弥太郎風味の語り口(香川照之さん、ちょっと“歯”がきれいになったね)で続けるのもツラいがじゃあ……。
1980年当時のミスター・バイク編集長はオサムだった。
会議、っつー名前の「ちょっと集まってくれる?」の号令で寄り合いが始まる。
あーでもないこーでもない、と、徹夜だけは屁とも思わない人間ばっかりだから、徹夜すりゃ仕事してる気になってる人間ばっかりだから、当然徹夜の会議になっちゃうのだった。
たぶんあん時も徹夜はしたんだろな。
たいてい、「なんか面白いこと仕掛けたいなぁ」ってことで……。
で、突然誰かに、何かが下りてきて、「あ、そうだ京都に行こう」……、JR東海……、いや、グッドアイデアがでるって寸法だ。
ま、言ってみりゃ適当だったのね。
「あ、そうだ、神奈川が元凶なんだから、神奈川へ行こう!」ってことになった。
何で? とお思いの読者の皆様も多いとことでしょう。
その年の8月18日、
「神奈川県高等学校交通安全運動推進会議」
が、横浜市中区海岸通の港湾労働会館で設立総会を開いた。
この会議の構成メンバーは県・市・私立高校の校長会代表、PTA代表、生徒指導担当教員代表、さらに公立中学校の校長会代表とPTA代表も加わった、総勢29名。
この設立総会で決定したのが、前述の「4プラス1ない運動」の展開だった。
ちなみにこの年1980年9月の時点で、「高校生の免許取得を規制している県」は全国で12県。
これに神奈川県が加わろうとしていた。
このままでは、「高校生免許取得規制」の火は瞬く間に全国に広がり、ニッポンでは「高校生はバイクに乗れなくなる」のは間違いなかった。
神奈川県高等学校安全運転交通推進会議は、神奈川県教育委員会、神奈川県警察との協力体制の元に、バイクを抹殺しようとしているのだ。
……今回ワタクシったら、マジメじゃん、なんだか。
そこでミスター・バイクが立ち上がったワケじゃ!
つーか、前回までは「モヒカン族」っつー風俗関係だったけど、今回は「社会派ミスター・バイク」の本領発揮じゃん!
ワタクシたち総勢10名。内訳は、男8名、女2名だった。
高校生らしく詰め襟制服と、セーラー服でキメた。
上は33歳から、下は23歳まで。平均年令は約27歳。
参加者を、一応紹介しよう。
大竹 オサム、当時編集長、『ケンタウロスの伝説』の原作者でもある
山崎憲治、当時独身、後の日本カー・オブ・ザ・イヤー実行委員長。
小宮山幸雄、当時のニックネームはミラーマン。
武井チエコ、当時未婚、その後、パキスタン、ニューヨークなどで過ごした。
杉浦 裕、当時新人、後のJ’s ティーポ編集長。
石井俊也、当時新人、その後、某有名作家のゴーストライターもやってた。