─ 橋本さんは宮城県の気仙沼市が故郷ですよね。橋本青年は気仙沼でどういう若者だったんですか。当然その気仙沼時代からバイクと関わってきた?
30年も前の話ですが、気仙沼高校で新聞部のキャップをやっていまして、当時、世の中に広がってきた二輪免許を「取らない」「乗らない」バイクを「買わない」っていう「三ない運動」が母校にも導入されまして、それに反対する記事を書いたのが、バイクとモノを書くことの初めての接点でしたね。
それから大学でジャーナリズムの勉強をして、就職した新聞系の広告会社では組合闘争をやったりしてクビになって、たまたま拾ってくれた出版社の社長がバイク乗り。しかも、「三ない運動」を解消するための市民運動を展開している奇特な人だったんです。もっとも、そのときは高校時代のことなんか忘れていますから、かつて母校の新聞に「三ない運動」の記事を書いたなんてことを思い出したのは、ずいぶん後のことですけどね。
─ たしか「ザ・バイク」という本で、土屋さんという毎日新聞の記者さんだった方が創られた…。
駆け出しライターとして「三ない」関連で書いた記事で印象深いのは、もう20年前の話ですけど、福島県の県立Y高校で起きた事件があります。バイクの隠れ乗りをしている生徒を、生活指導の教師がクルマで追いかけて、生徒がカーブを曲がりきれずに事故死したんです。
前途ある子供が死なされたのに、「学校さぼってバイクに乗っているヤツが悪い」っていうふうに世論が傾いて、クルマで追いかけた教師を“教育熱心”と持ち上げる意見もありました。
裁判を傍聴していた私からすれば、どんどん学校側に都合のいい証言がされていくなかで、亡くなった少年はいま何て反論したいだろうなって、ずっと考えさせられたものでした。 それから何年も経つうちに、若い人がだんだんバイクから離れていったのは、べつにバイクを不要と考えているわけじゃなくて、回りの大人から“足をもがれている”だけなんじゃないだろうかっていう思いがよぎっています。
高速道路の80キロ規制、二人乗りの禁止、高速料金、馬力規制、車検問題、そして駐車場問題と、仕事でいろいろ関わってきましたけれど、根っこの問題は「三ない運動」と変わりないんです。
─ それらに立ち向かっていく橋本さんの基本的な熱い思いというのは?
われわれは自由であらねばならないし、その自由を守るために自制もしなくちゃならない。このジレンマをどう乗り越えるかが、日本のバイク乗りの、永遠の課題になっていると思っています。
ところが、このところの日本では、ジレンマを乗り越えるんじゃなくて、ジレンマの元を絶つやり方で、問題をないものにしようとするとこがあるんです。
いわく、「駐車場所が不足しているので、不要不急のバイクは乗らないように!」。
─ 前回のここで私も書いた、大阪市の職員の発言ですね。
オレたちの自由はこれから、どこに行ってしまうんだろうって…思いますね。
─ そういう橋本さんが大きな被害を受けた故郷・気仙沼市に帰ったのはいつごろで、気仙沼へ向かう状況はどうだったんですか。
バイクで気仙沼に向かったのは、震災から17日目の3月28日です。東北自動車道は早くも24日には再開していましたから、道路はまったく問題なしでした。ただ、ガソリンの供給がまだ滞っており、ガス欠の心配は大きかったですね。で、ひたすら経済走行で、サービスエリアがあるたびにちょこちょこ注ぎ足して進んだので、それほど給油で苦労はしませんでした。
ただ、前々日には白河が積雪で、チェーン規制があったくらいですから、例年にない寒さで、どこかで立ち往生して救助でもされるハメにでもなったら大迷惑をかけてしまう、それだけは避けたい、と。
そんなことで、用心して携行した荷物は、防寒用具、緊急用具が多くを占めました。ざっと挙げますと、テント、寝袋、衣類、雨具、カイロ、コンロ、3日分の水、米、副食品、炊飯道具、懐中電灯、ラジオ、工具、ロープ、ガムテープ、ビニールシート、ゴミ袋、パンク修理キット、予備燃料などなどです。幸い、トラブルなく現地に到着できましたので、ほとんどの用具を使わずに済みましたが、バイクといっても工夫すればけっこう積載できるものだと、あらためて実感、実体験しました。
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