ライムグリーン伝説・第五章

KR1000(1983)

KR1000


1973〜75年、ヨーロッパの耐久レースの主役はZ1ベースのレーサーであった。世界耐久レースの頂点とも言われたボルドール24時間で1、2、3フィニッシュを決めるなどその活躍はめざましく、カワサキ車の販売に大きなアドバンテージをもたらしていた。

インターネットなどない当時、遙か彼方、欧州で行なわれる世界耐久の結果は日本でも数日遅れながらレース速報が発行されるほど感心が高く、その結果にカワサキファン、ホンダファンはもちろん、バイクに関心のない層にも耐久レース、RCB、KRなどのキーワードを焼き付けた。

ライバルのCB=ホンダ陣営はZの牙城を覆すべく急遽本格的な耐久チームH・E・R・T(ホンダ・エンデュランス・レーシング・チーム)を結成、CB750FOURのSOHC2バルブ4気筒エンジンをベースに(とはいえ、クランク軸の位置や寸法が同じというだけで、ほぼ完全新設計)DOHC4バルブ化したRCBを開発し、1976年から参戦を開始。今や伝説となった「無敵艦隊」と呼ばれるほど圧倒的な強さでサーキットを席巻、カワサキは一転して苦境に追い込まれてしまう。

当時フランスのカワサキ車輸入元シデム社がバックアップしていた耐久チーム・パフォーマンスの監督であり、耐久レースの神様の称号を持つセルジュ・ロセ氏が川崎重工業本社を訪れ、「RCBに勝てるワークスマシン」の開発を強く要請したこともあり、対RCBの本格的なワークスレーサーKR1000の開発がスタートした。

本社開発陣の活躍によりエンジンは1979年に形になったので、ワークスレーサーKR250の開発チームにフレーム製作を依頼、1979年の鈴鹿8耐でZ1ベースのエンジンをスペシャルフレームに搭載した2台のKR1000の原型、開発ナンバー605(当時はまだKR1000という名称は付けられていなかった)がサーキットデビューを果たす。

ライダーは、当時カワサキの社員ライダーであった徳野政樹、徳野博人の兄弟コンビと、エース級の和田正宏、清原明彦組。

徳野組は予選2位、和田、清原組は予選10位と好位置からのスタートでトップを走るシーンも見せたが、徳野博人が23周、和田は68周目に転倒しデビュー戦は2台ともリタイアという結果に終わてしまった。

しかし、日本でも人気が高まりつつあった耐久レースの日本の頂点である鈴鹿8耐に日本人ペアのライムグリーンレーサーが登場し、トップに負けない快走を見せた結果は、カワサキファンならずとも大きな話題となった。

翌1980年、フランスカワサキの耐久チーム、カワサキフランス・パフォーマンスのKR1000は、ミザノ1000km耐久レース(イタリア)に出場、KR1000の初勝利を飾った。

このマシンは前年の鈴鹿8耐を走ったKR1000(605)とは別フレーム(フランス製)の片持ち1本サスで、エンジンはツインプラグ化されていた。片持ち1本サスは、1982年型からリンク式モノサスとなり、後に市販車で開花する「ユニトラック」の礎でもあった。

同年の鈴鹿8耐は世界選手権に組み込まれたこともあり、耐久の本場フランスからホンダ、スズキ、そしてカワサキの現地チームなど有力チームが来日した。

カワサキフランス・パフォーマンス・チームのKR1000は21周でリタイアとなってしまったが、カワサキワークスのグレッグ・ハンスフォード、エディ・ローソン組は、有力候補ヨシムラGS1000Rのウエス・クーリー、グレーム・クロスビー組を相手に大バトル展開。終盤ガス欠による計算外のピットインにより、惜しくも2位となった。徳野、清原組も7位と健闘し、ホンダのRS1000、スズキGS1000Rといったワークスマシンを相手に活躍したKR1000を強く印象づけた。

KR500

1981年型のボルドール24時間仕様。リアショックにKR250からフィードバックされた非リンク式の1本タイプを装着している。キャブレターの脱着を容易にするためフレームは左右非対称形状。

ベースエンジンをZ1000系からZ1000Jベースにチェンジし戦闘力を向上させた1981年からは安定した強さで破竹の進撃を見せる。

翌1982年と2年連続で欧州耐久選手権のライダーランキング1〜4位を独占、メーカーズタイトルも手中にし、KR1000の敵はKR1000というような凄まじい強さを見せKR1000の黄金時代を築き上げたのだ。

市販車開発を重点的におこなうため、カワサキワークスがレースから撤退したため、最後の年となった1983年は、鉄の鋼管からアルミ角パイプを使用した新フレームに一新、GPレーサー並に大幅な軽量化を果たした。

KR500

1983年の第6回鈴鹿8耐に参戦したKR1000。熱さを考慮してかアンダーカウルは装着されていない姿で登場。1番はJ・コヌルー、清原組。2番はJ・ラフォン、P・イゴア組。1番は予選2位からスタートし、決勝ではトップを走ったが、ガスケットの破損に見舞われ惜しくもリタイア。2番は接戦の末、惜しくも2位に。

TTF-1のレギュレーション変更により1000ccマシン最後の年となった1983年鈴鹿8耐では、耐久レースの醍醐味ともいえるトラブルが各チームに多発。

チャンピオンシップを争う本場フランスカワサキのラフォン・イゴア組(リザルトではKZ1000Jとなっているが実質はKR1000)がトップを快走したものの予期せぬオイル漏れによりピットイン。その間にスズキのモアノー・ユービン組(スズキフランス GS1000R)が、トップに返り咲く。

しかし終盤間際に電気系トラブルでピットインと大波乱で、見るものも手に汗握る展開となったが、それでもなんとか逃げ切り優勝をさらった。

優勝したモアノー・ユービン組のラップ数は190周と、前々年(前年は雨により6時間耐久に短縮)より9周も少ない周回数でいかに乱戦であったかを物語るある意味見応えのある8耐であった。日本人コンビのチームカワサキ岡、喜多組のKR1000は4位でフィニッシュしている。

KR500

写真の車両は1983年、角型アルミパイプフレームに変わりコンパクト化された最終型。ライトの上部にあったオイルクーラーは、ライダーへの熱対策で下部に移設。S・ペランディーニ、G・コードレイ、J・コルヌーがルマン24時間レースを征した時の仕様。KR1000最後のこの年、惜しくもライダータイトルはスズキに譲ったものの、メーカーズスタイトルは死守し、有終の美を飾った。

KR1000は惜しくも2位で最後の8耐を終えた。

世界耐久も1000cc最後の1983年にメーカーズタイトルは死守し、初代4ストグリーンモンスターKR1000はサーキットから去った。

Z vsCB。永遠のライバルの代理戦争を闘ったRCBはもてぎのホンダコレクションホールに、KR1000はカワサキの明石工場内某所で大切に保存されている。 願わくば、両車の咆吼をもう一度、聖地鈴鹿で見て聞きてみたい。

エンジンはボア・ストローク69.4×66mmの998cc。バンク角を稼ぐためにジェネレーターはドライブスプロケット側に移設されている。ドライブ軸にスプロケットと共に取り付けられたプーリーからベルトで駆動する。※部分写真はすべて1983年最終型。

クラッチはスプロケ側からシャフトでプッシュするZ系のタイプから、プル式に変更されている。エンジンオイルをすばやく注入するために、専用の入れ口が付いている。スイングアーム内はオイルキャッチタンクになっている。


タコメーターの下にある四角い箱はCDIイグナイター。冷却を考慮しここに設置された。タコメーターは5000rpmから始まり11500rpmからレッドで12500rpmまで刻まれている。

フロントフォークにはKR500と同様の機械式アンチノーズダイブを採用している。角形のブレーキキャリパーは4ポッド。

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