おやびん道

それぞれの道には、それぞれの風土、気候、環境などを積み重ねた表情がある。それはまた人生にも似ている。道は人生、道の数だけ物語がある。野口おやびんが走って来た幾多の道を、想い出話と共に語ろうか。


第24回 R252~只見の道


国道252号線=R252は、新潟県・柏崎市と福島県・会津若松市を結ぶ一般国道で、延長は約205km。新潟県側からたどると、只見町に通じる田子倉湖手前の六十里越と呼ばれる峻嶮な区間が難所で、‘73年に六十里越トンネルが完成し、全線開通となった。なお、山深い只見周辺は日本でも有数の豪雪地帯だ。

R252

 俺がこれまでに何度も利用しているルートは、新潟県の小出町(現在は魚沼市小出)~会津若松市の間、もしくは小出~只見町までの区間だ。初めてR252を走ったのはもう37年前のことになる。19になる数か月前の‘75年春、今で言うゴールデンウィークに、2泊3日の日程でソロツーリングに出かけた。コースは東京~伊豆半島~房総半島~いわき~会津若松~小出~群馬の富岡~東京。走行距離は約1500kmだった。1日目は伊豆半島を1周して横須賀の久里浜まで走り、東京湾フェリーで房総半島の金谷に渡って、白浜の民宿泊。2日目は房総半島の海沿いを北上して九十九里~銚子に出て、さらに鹿島灘を右手に見ながら海岸沿いを走っていわきまで。そこからR49で猪苗代町に行き、民宿に飛び込んだ。

 そして3日目、会津若松からR252に入り、小出町に出て、R17で三国峠を越えて群馬の富岡の実家に寄ってから帰京した。そのとき印象的だったのが田子倉湖から六十里越過ぎまでの山岳道路だ。路傍には残雪がまだ多く残り、スノーシェッドの屋根の部分から雪解け水が谷に向かって滝のように流れ落ちていた。トンネルも多い。山間のため気温は低かったが、予想して革ジャンを着ていたから寒くはなかった。残雪の多い山の景色にも目を見張ったものだった。それまで、そういうところはほとんど走ったことがなかったから。

 その後、バイク雑誌の仕事をするようになってから、仕事でも4、5回は走り、個人的なツーリングでも5、6回は利用してきた。いくつか思い出をたどってみる。8年前の夏、中学3年になった三男をトラ・サンダーバードの後ろに乗せて、4、5泊で東北ツーリングに出かけたときにも通った。山形の友人宅にて2泊した帰路、会津若松からR252に入った。生憎、雨が降り出し、柳津あたりで昼食を取ってそこからカッパを着用した。只見町に入って、田子倉ダムで休憩し、その後はノンストップで小出まで。そこからR17号で三国峠を越えた。夏だったから六十里越の周辺も寒くはなく、雨もその頃には上がってくれたように記憶する。


R252

R252
只見付近の山岳地帯は冬は深い雪に閉ざされ春まで通行止め。 新潟県と福島県の県境、六十里越あたりから猪苗代湖只見川沿いをJR只見線に沿って会津へ。

 その親子ツーリングの前か後だったか、バイク仲間5、6人で裏磐梯へ1泊ツーリングに行った。季節は初夏の頃だった。関越自動車道の小出ICで待ち合わせしてR252をずっと走り、会津若松経由で裏磐梯の宿に。初日は好天で、気持ちよく走れた。田子倉湖で休憩し、只見町の昔ながらの食堂で昼食。店内には豪雪に見舞われた昔の街並みの写真がいくつも飾られていた。只見は日本でも有数の豪雪地帯なのである。翌日は猪苗代湖岸を走っているうちに雨が降り出した。俺はしばらく粘って天気の回復を願ったが、徐々に雨脚は強まり、仕方なく路傍でひとりカッパを着た。皆がカッパを着るときに一緒に着ておけばよかったのに、待たせて迷惑をかけてしまった。帰路は別の道を選択して、横浜から参加した2人と一緒に白河あたりから東北自動車道を使って帰った。

 4、5年前の夏には長男と友人と3人で大内宿にツーリングに出かけ、往路は東北自動車道経由で日光まで、その後霧降高原など山の中をつないでR121で大内宿に。翌日の帰路にR252を使った。長男は用があって早く帰るというので田島あたりで別れ、東北道で帰京した。友人と俺は田島からR289で只見に。途中、道を間違えて時間をロスした後、昼飯をと、道端の看板を頼りに脇道に入って行った食事処が面白かった。「お急ぎの方はご遠慮ください」と但し書きが入り口に掲げられている。入店しておばちゃんに聞けば、忙しないのは嫌いなので、という。そのときはほかに客はなく、それほど待つこともなく、郷土料理の昼食膳が運ばれてきた。店内の壁に河井継之助のことが書かれていて興味を抱いた。

 河井は長岡藩の家老で、戊辰戦争では幕府軍側について薩長の官軍と戦った。司馬遼太郎の「峠」は彼のことを書いた小説だ。何度か読んでいるが、詳しいことは忘れてしまっていた。六十里越えの北に、越後三条と只見を結ぶ道の間に八十里越と呼ばれる峻嶮があって、継之助は長岡からそこを超えて会津に逃避する途中、只見で死去したと言われている(敵の流れ弾に当たり、その傷から破傷風になって)。河井継之助記念館も近くにあるようだ。ともあれ、おばちゃん手作りの食事はおいしかったし、継之助のことにも接することができて、怪我の功名、道を間違えてよかった、なんて思ったのだった。

 R252は、山深い地を通る道なので、観光シーズンの土日を除けば交通量は少ないし、景色はいいし(特に六十里越あたりや田子倉湖周辺)、コーナリングも楽しめる。また走ってみたい、と思う道のひとつだ。



野口眞一

野口眞一
1956年、7月生まれ。バイクに乗って40数年、バイク雑誌関係の仕事に就いて30数年。若い頃からバイクの旅が好きで、日本各地を走り回ってきた。所有するバイクは今となっては滅多に見ないトライアンフのサンダーバード(1996年型の水冷並列3気筒)で、15年乗り続けている。長く乗っている割には走行距離は少なめで6万5000km。

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