MBHCC A-6

かつてミスター・バイクの誌上を彩った数々のグラビアたち。

あるときは驚きを、またあるときは笑いを、そしてまたあるときは怒りさえも呼び込んだ、それらの舞台裏ではなにがあったのか?

1980年代中盤から1990年代に、メインカメラとして奮闘した謎の写真技師こと、エトさんこと、衛藤達也氏が明かす、撮影にまつわる、今だから話せる(んじゃないかと思うけど、ホントはまずいのかも)あんな話、こんな話。聞きたくないですか。

ヨンフォアは燃えているか 浩は燃えているぞ だはだは

「エト〜クン、お仕事の電話です。だはだは」

※アクセントの上下は矢印の感じで読んでください(え↗と〜→く→ん↘お〜↗し〜→ご↘と↗の↗で〜→ん→わ↘で→す↘だ↗は↘だ↗は↘)。

 
 受話器の向こうから、くっさーいラブソングで安易に使われる台詞と同様、永遠不滅という言葉がぴったりな北関東アクセントの「だはだは」が聞こえます。安生 浩さんからの電話はいつもこれです。これ以外で始まる電話は受けたことがありません。当時考えたこともありませんでしたが、つまるところ仕事以外の電話はまったくない=「お金だけの割り切った関係」だったということでしょうか。

 
 今回の主役の安生 浩さんは、ある意味ですごい人です。今風に言えばまったくブレがない。特にオシャレに関しては、うるさいRIKACO様もしっぽを巻いて逃げるでしょう。その一例を示しましょう。

 
 その昔、景気が良かった頃、ミスター・バイクとゴーグル(今のゴーグルとは全く別物)とミスター・バイクBG編集部は毎年クソ忙しい年末に海外旅行(社員旅行)をしていました。まだ直行便がなかったプーケットとかカボサンルーカスとか、当時日本人は行かないようなところばっかり(今やメジャーな観光地ですが、「ゆきゆきて道祖神」でおなじみ旅行会社道祖神の菊地さんが無理難題を押しつけられた上にアテンドさせられていました)。
 日本人観光客は珍しいので、現地の人もあの手この手で一生懸命おみやげを売りつけます。しかし、ロクなもんがないのでみんな冷やかすだけでした。安生 浩さんを除いては。安生 浩さんの目はキラキラ輝きっぱなしでした。もんぺ柄ジーンズやMCハマーが履いているようなハーレムデザイン的乗馬ズボンを変形したようなズボンを買い込みご満悦。まわりから非難されようが笑われようが「日本じゃ売〜ってないよ。カ〜ッコいいでしょ。だはだはだは」と喜々とだはだはしていたのです。
 センスもぶっ飛んでいますが、今回注目して欲しいのは周りの意見に動揺しない堂々とした感覚の持ち主だという点です。人の話を聞かない=KY=鈍感=自分勝手という解釈も成り立つといえば確かにそのとおりですが。

 
「エト〜クン、今回のお仕事はZの特集です。だはだは」

※めんどくさいので、以下アクセント表記はしませんが雰囲気を出して読んでいただけると幸いです。

  
 1985年、中古車と中古パーツをメインに季刊としてスタートしたミスター・バイク別冊バイヤーズガイド。これがすこぶる好評で、1986年12月号からめでたく月刊化されました。ということはもうすぐ30年。創刊スタッフである安生 浩さんは、その前はミスター・バイクにいましたから、今や30年以上の大ベテラン編集者です。
 風の噂ではずいぶんまるくなったようですが、バリバリ20代で特集のチーフとなった安生 浩さんの当時のハッスルっぷりは、それはそれはすごいものでした。

 
 安生 浩さんといえば、誰が言い出したのか、言い得て妙な”都内引きずり回しの刑”がありました。
 編集部の集合時間は、東京湾(ベイ)の港の店のライトが揺れる午前3時。すぐ箱根に移動し、車の少ない時間に走りを撮ったら朝メシも喰わせてもらえないまま都内へ逆戻りして、あっちこっちでちまちま撮影を繰り返し、一通り撮影が終わりさあ帰りましょうと思えば「夕陽撮るからね〜帰っちゃだ〜めだよ。だはだは」。しばらく待機した後、夕陽を撮って今度こそ帰りましょうモードかと思えば「夜景撮るからね〜。だはだは」あちこちと引っ張り回され編集部に帰りつくのは22時過ぎ。へろへろで帰ろうとすれば「エトークン、あ〜したも3時集合だからね〜。遅刻しちゃだ〜めだよ。 だはだは」と、お疲れさまの一言のその前に、満面の笑みでダメ押しをするのでした。

 
 よくもまあそんなに撮るものがあると、本が出来上がってあぜん。ほとんどのカットが小さなコマ、または使われていないのです。そういえば撮影中「一〜応、撮っ〜ておいてね。だはだは」と言っていたような…… “都内引きずり回しの刑”が何回も続くと心身共に疲れ果てます。あまりにも辛かったので「私、このまま安生 浩さんの引きずり回しが続くと、確実に死んでしまいます。その前に気が変になるかもしれません。しかしもっともっとギャラを頂ければ我慢も出来ます」と小宮山編集長(現在はコラム「順逆無一文」の主筆です)に泣きつきました。磨いていたM1911A1を机の上に静かに置くと静かに言いました。
「わかりました」次の月からギャラが上がることはありませんでしたが、労働条件はやや改善されました。しかし早朝(というか深夜)や夜間(というか真夜中)の撮影は 相変わらずでした。

  
 BGが月刊になって早2年、業界も驚くミスター・バイクと肩を並べる急成長で部数を伸ばしていた1988年の年末のことでした。
「エト〜クン。今回のお仕事はヨンフォア〜の特集です。特集ページの特撮を打ち合わせしたいので編集部に来てくれる? だはだは」
 なんだかものすごくイヤーな予感がしました。私もプロカメラマンですから覚悟を決めて編集部に行きました。すると安生 浩さんは「だはだはだはだは」と満面の笑みでどこかで見つけてきた写真を差し出しました。
「こ〜んな感じで撮〜りたいんだけど。だはだは」 
 どんな写真だったかはっきり憶えていませんが、キャンプファイヤーを横に長くしたような大きな炎の写真だったと思います。

 
「こう〜いう火がヨンフォア〜の後ろでど〜んと燃えている写真を撮〜りたいの。だはだは」



1988年2月号
ミスター・バイクBG1988年2月号。表紙はスケバン刑事3姉妹の中村由真ちゃん。

 
 前に何度か書いたように、ミスター・バイクではいろいろな特撮をしていましたが、BGではセットを組んだ撮影はしていませんでした。大がかりな特撮が可能なのもシンヤさんという名プロデューサーあればこそ。仕込み8分、現場1分、運1分の特撮で、いきあたりばたっりの根性と運で乗りきる安生 浩さん仕切りの特撮はかなりの不安が伴います。ですが、単に炎がバックというだけならば技術的にそれほど難しいことではありません。「バイクの後ろに炎があればいいんですか? だったらいらない布団にでもたっぷりガソリンぶっかければいいんじゃないですか?」などと適当に答えました。すると「ちょっ〜と待てて。だは」と言い残し、すぐに満面の笑みで布団をかかえ「こ〜れでい〜いんじゃない? だはだだはだは」と戻ってきました。
 当時編集部にあった仮眠室から勝手に布団を持ってきたのです。しかも、何年間使いこんだのだろうというほど汗と垢まみれに汚れている触るだけで痒くなりそうなシロモノでした。こんなの燃やしたらとんでもない有毒ガスが出るか、見たことないような虫がぞろぞろ出てくるんじゃないかとぞっとしました。
「いいんですか? これ使っちゃって……仮眠できなくなりますよ」
「大〜丈夫、こんなのだ〜れも使って〜ないんだから。い〜いんじゃない。だはだは」
 最大の問題は撮影場所です。近くに民家のあるところではできません。「どこか建物も人気もない広い所でやらないと……で、火をつけたとたんに通報されるとどうしようもないですよ。チャッと火をつけて、ちゃちゃっと撮影してチャッチャチャと撤収。これが基本です」「わ〜かったよ。だ〜れかにきいてみるよ。だはだ……」自信満々ではなく、少し頼りない返事でしたが、安生 浩さんのすごいところは有言実行、気力と体力でなんとかしてしまうところです。
 不人気車特集(BGでは「隠れ迷車」と呼んで人気の企画でした)では、さんざん探してもコンディションのいい撮影車が見つからず、あきらめますかという撮影当日、「ちょっ〜と探してくる。だは」とふらりハイエースで出かけ、3時間ほどするとぴかぴかのNV400SPを積んで戻ってきました。いったいどんなマジックを使ったのかは教えてくれませんでしたが、やるときはやるブレない男なのです。また当時のカスタム業界、印刷業界の一部では、自分の都合ですべての事象を強引に完結させしまうこの手法を「安生車を押す」と呼び、恐れていました。

 
 本番日。特撮に備えて夜からの訳もなくの朝5時編集部に集合し、昼の撮影からという段取りになりました。予想的中……まあ、これは毎度のことです。
 都内のどこだったか、曖昧な記憶ですが青山近辺だったような気がします。赤、黄、青3台のヨンフォアのコーナリングをワンカットに収めるという簡単そうですが面倒な撮影からスタートしました。
 ハッキリ言ってしまいます。3台を同時に画面に収めるのはカメラマンの腕というよりも、ライダーの技術次第です。プロライダーなら造作もないのでしょうがそんな予算があるはずもなく、安生 浩+ペーペーの編集部員(青山だったかな?)+バイトのあんちゃんの寄せ集め3人組ではなかなか揃いません。何回か走ってもらいましたが何度やっても上手に車間を詰めることが出来なないのです。本人はかなり車間が詰まった様に感じるのでしょうが、ファインダーの中では全く空き空きのガラガラ……デジタルの今と違ってその場で確認はできませんし、状況を伝えようにも携帯電話も無線もありませんから簡単ではありません。いらだちを押さえつつ、身振り手振りで合図して、何度も撮り直して画面に納めることができました。


走り写真

走り写真

3台並びの失敗写真です。重なるくらいの間隔でないと間延びしてしまうんです。 あまりに手応えがなかったのか、直線の走りも撮っています。しかも衣装を着替えています。

 
 その後どこかのカフェっぽいところに移動して、3台の絡み撮影。この撮影についてはまったく憶えていないのですが、写真を見るとバイク設置するのが大変だったような気がします。それが終わると砧公園(これはゲリラではなく、ちゃんと許可を取った記憶があります)でカスタム車の撮影をして、また移動してCB350FOUR、CBX400Fと共に水たまりに映りこんだ撮影。これもどこで撮ったのか記憶にないのですが、こんなワンカット(……)のためにわざわざCB350FOURとCBX400Fを借りてきて、運んで、場所を移動して……こんなことをやっているのですから、早朝から夜中まで「都内引きずり回しの刑」になるのは当たり前なのです。


カフェ

CB350FOUR、CBX400F


カフェ

CB350FOUR、CBX400F


エンジン
カフェに水たまりにカスタムに女の子(わかえさんお元気ですか?)、さらにエンジンのバラシなどなど。これでもまだ一部です。これを毎月数日で撮っていたのですからそりゃ引き回しの刑になるわけです。

 
 へろへろで一旦編集部に戻り、ハイエースに違うヨンフォアと発電機(編集部にあったちっちゃな発電機がよく働いてくれました。その後、H社の忘年会のくじ引きで安生 浩さんが強運を見せ新型発電機をゲット。女の子とスキーに行っても1円単位まできちんと割り勘にして世間を騒然とさせた経済観念で有名な安生 浩さんが、この発電機はなぜか使用料を請求することなく撮影に使わせてくれたので外ロケが頻繁に行われるようになりました)とお掃除キット(バイクを奇麗にする道具+周辺をお掃除する道具。ちなみに安生 浩さんのバイク磨きは、すべてCRC556を吹き付けて磨くという恐ろしいもので、ブレーキディスクだろうがタイヤだろうがガンガン吹きまくり磨いていました。置きだけならともかく、試乗してたいへんな迷惑を受けた人が大勢いるはずです)、そして例の布団を積み込んで編集部を出発しました。2時間ほど走って、何にもない広々としたまだ手つかずの造成地のようなところに到着しました。

 
「エト〜クン。こ〜こなら、だあ〜れもこないからね。あ〜んしんして撮〜影で〜きるよ。だはだはだはだは」と自信満々。確かに街灯一つなくあたりは真っ暗で「だあ〜れもきそ〜うにな〜い」ところでした。
 安生 浩さん指揮で、ペーペー編集部員がハイエースからバイクを降ろし地面をおそうじしてバイクを磨いてと、さすがにいつもやっているだけあって手際よく準備します。私も撮影準備です。バックの炎からあまり近いと借り物のバイクが危ないので、4〜5メーター後ろに布団を設置しました。カメラの準備もできライティングも済んで……といっても当時は写真ライティングと言えるほどものではありません。今見ると酷いですね。恥ずかしいです……レフ板すら使ってません。当時はまだ未熟者でしたから、ストロボは1灯焚きです。貧乏で機材が未だ買えてない頃で、グリップタイプのナショストを江古田駅前に丸井林という3階建てくらいのデパートがあって、なぜだか新品を1万円くらいで在庫処分していたものを学生時代に購入したものです。アラを探すと一杯あるのでこのくらいで勘弁してください……このストロボ1台しか持っていなかったはずです。

 
 準備が整い、布団にガソリンかけて点火。シャッターを切ろうとファインダーを覗いたのですが……
「あ〜れ? エト〜クン……だ〜めだよ。も〜っとぶわ〜っと広〜がらないと、かあ〜っこよくないよ〜! モ〜ット、モ〜ットど〜んと横〜に縦にの〜ないと、だぁ〜めだよ〜!! だはっだはっだはっ!!!」


撮影準備

ふとん

準備風景の写真が残っていました。ミスター・バイクとは違って残ポジ管理をきちんとしているBGは昔の写真が結構残っているのです。編集長の性格の差でしょう。 第一弾は布団の炎。さすがにこれでは使い物になりません。ちなみに点火した布団から有毒ガスや変な虫はでてこなかったはずです。

 
 そうなのです、熱でバイクの塗装がおかしくなったら取り返しがつかないので、マージンを多めに取りバイクと布団を離し過ぎたのです。
「布団でも持ってきて、たっぷりガソリンぶっかければいいんじゃないですか」と無責任に言ったものの、元来小心者の私です。実はこうなるのではないかと予想しており、言った手前「やっぱり出来ませんでした。だは♡」ではえらいことになるので針金とウエスの切れ端をたくさん用意してもらっておきました。バイクから2メーターくらい離して棒を二本立て、そこに長ーく針金を2段張り、20センチおきにガソリンを染み込ませたウエスをくくり付け炎のすだれを作るのです。

 
 「こ〜れだよ〜! こ〜じゃなきゃ、か〜っこよくないよ〜。さあ、どん〜どんシャッタ〜切って切って〜。だはだはだはだはだは」

 
 でも後輪のほうは付けてあったウエスは途中で燃え落ちてしまい、炎がバイク全体をカバーすることは出来きませんでした。現場で解っていたので残念でしたが、安生 浩さんは「だはだは」を大連発するかなりの上機嫌でOKが出ましたので、チャッチャチャとかたずけて、痕跡が残らないようキレイにお掃除をして、編集部に戻ったのは夜中のお昼に近くでした。


撮影中

誌面

点火の手際の問題で前輪側に炎が回っていないのに、後輪側はぼうぼうです。 誌面に掲載されたのがこれ。背筋がむずむずするようなコピーはもちろん安生 浩さんの作品です。

 
 この炎の特撮の成功以降、どう考えても出来ないような無茶苦茶なオーダーが増えたことは言うまでもありません。現在も安生 浩さんはBGの編集部員で活躍中です。撮影担当の鈴木キャメラマンの苦労を思うと、涙を禁じ得ません。
 私が某先輩カメラマンから言われた一言をお伝えします。
「安生はよぉ悪い奴じゃないんだよ。動物なんだ……」
 鈴木キャメラマン、あなたなら解りますよね。


歌手になろうと上京した(という噂の)安生 浩さん。マジで歌は上手ですが、写真はあくまでイメージです。

衛藤達也
衛藤達也
1959年大分県生まれ。大分県立上野ヶ丘高校卒業後、上京し日本大学芸術学部写真学科卒業。編集プロダクションの石井事務所に就職し、かけだしカメラマン生活がスタート。主に平凡パンチの2輪記事を撮影。写真修行のため株式会社フォトマスで (コマーシャル専門スタジオ)アシスタントに転職。フリーになり東京エディターズの撮影をメインとしながらコマーシャル撮影を少しずつはじめる(読者の方が知っているコマーシャルはKADOYAさんで佐藤信哉氏が制作されたバトルスーツカタログやゴッドスピードジャケットの雑誌広告です)。16年前に大分県に戻り地味にコマーシャル撮影をメインに活動中。小学校の放送部1年先輩は宮崎美子さんです。全く関係ないですが。


●衛藤写真事務所
「ぐるフォト」のサイトを立ち上げました。グーグルマップのストリートヴューをもっと美しく撮影したものがぐるフォトです。これは見た目、普通のパノラマですが前後左右上下をまるでその場に立って いる様に周りをぐるっと見れるバーチャルリアリティ写真です。ぜひ一度ご覧下さい!

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