MBHCC A-6

かつてミスター・バイクの誌上を彩った数々のグラビアたち。

あるときは驚きを、またあるときは笑いを、そしてまたあるときは怒りさえも呼び込んだ、それらの舞台裏ではなにがあったのか?

1980年代中盤から1990年代に、メインカメラとして奮闘した謎の写真技師こと、エトさんこと、衛藤達也氏が明かす、撮影にまつわる、今だから話せる(んじゃないかと思うけど、ホントはまずいのかも)あんな話、こんな話。聞きたくないですか。

第24回「スナイパータツヤ 乾坤一撮」

 今回はレース取材の話です。いつもと違ってあまり面白くないかもしれません。つまらなかったらごめんなさい。

 
 レース撮影のいろはは、大学を卒業して入れていただいた、このコラムで何度も登場している I 事務所で勉強させていただきました。

  
 レース業界のことはなにも知らず、初めてのことばかりでした。どれくらい知らなかったかといいますと……エピソード1。ある日事務所の前で社用車を洗っていると、神戸ナンバーのベンツが目の前に停まりました。ウィ〜ンとスモークウインドウが下り、黒サングラスをかけたどう見てもヤ○ザにしか見えない人が「アンちゃん、Iやんいるけー?」(こんな感じだったと思います)、とドスの効いた関西弁で言いました。社長は留守だったので、ビビリながらその旨を伝えると「ほな、神戸の金谷が来たと伝えといてんか」と、再びドスの効いた声で言うと、ぶお〜んと走り去りました。

「しゃ、社長! 先ほどヤ○ザの金谷さんがいらっしゃいました。借金ですか? 飲み屋のねーちゃんがらみですか? まさかヤクはやってないですよね……うちの事務所はだいじょうぶですよね!?」と、怖々と伝えると、大きな目玉をさらに大きくして大笑いされました。
「あの人はレーサーだよ」

 半年後、あのヤ○ザみたいな人が、世界の金谷秀夫さんだと知りました……エピソード2は、M誌でその金谷さんの引退レース独占取材をやった時です。ピットで写真を撮っていると、いきなりちっちゃくて馴れ馴れしい外国人が抱きついてくるではないですか。

  
「何だこのちっこい外人は? 本場のモーホか!?」

  
 モーホだと思った外人さんは、誰でも知っているあのキング・ケニー(もちろんパパ)でした。こんな具合で一年目は本当にホントの業界知らずでした(未だにそうですが)。今思えば、なんでケニーと一緒に写真撮らなかったのか、たいへん後悔しています。

  
 と、そんなことはどうでもいいので、話をはじめましょう。

 
 あれはたしか1985年の夏ももう終わりの頃でした。いつものように近藤編集長から編集部に呼び出されました。今回の依頼は、日本GPを撮影してこいでした。日本GPと言っても全日本選手権の最終戦のことで、世界GPではありません。当時世界一のバイク生産国だった日本でしたが、世界GPは開催されていませんでした。晴れて世界GPラウンドとして日本GPが開催されるのは2年後の1987年からです。

  
「エトーよ、ウチは普段さレース記事って8耐以外あんまり載せることがないだろ。それをわざわざカメラマン2人も使って取材するんだからさ、絵的に(※注1)面白いいいヤツ撮ってこいよ! なっ! ドラマなっ! ドラマっ!!」



1985年11月号表紙
今回のお話は1985年11月号から。FX400Rが発売された月の号で、一世一代一度きりの大特集をしております。FX400Rマニアの方は必見。

 
 確かにレース専門誌のように何ページも取れないので、これだっ! というミスター・バイクらしい一発決め写真が求められるのです。この時私は26歳。ミスター・バイクからお仕事を頂ける様になってまだ1年目くらいでした。レースの撮影経験は4年くらいでしたが、なんと鈴鹿のAパス(※注2)を持っていたのです。


※注1)
この頃、誰が言い出したのか「絵的に」という言葉が流行っておりました。一度、ケンオウ(現在では某大自動車メーカーの執行役員。ケンオウとのドイツ珍道中は第8話で)に「エトーさん、絵的って言葉どーなんですか? こんな使い方していいもんですか!」と責め口調で問いただされて「どうなんだろう……」と返事に困ったものです。当時からケンオウの視点や指摘は鋭かったんです。

※注2)
ほぼどこでも行けるプレスパス。今はどうなっているのか解りませんが、当時はピットやピットロードでしか撮れないBパスで何年か経験を積まないとAパスはもらえませんでした。勘違いしないでください。自慢話ではありません。ペーペーの私がAパスを取得できたのは、I事務所社長の力でしょう。決して私が偉いのではなく、I社長の人脈と人徳の成せる技だったのです。

 
 他誌のレース取材の場合、カメラマンは1人なので大変でした。キメの走り写真と表彰式は絶対に撮らなくてはいけません。今時の素晴らしいデジカメがあれば、表彰式はライターさんにおまかせでしょうが、そういう訳にもいきません。一人だと鈴鹿の場合、S字のイン側とピットの往復くらいしかできないのです。

  
 今回は私とレースカメラマンのT君(※注3)の2人体制で、さらに編集として同行する M君(※注4)は大のレース好きでカメラ好きなのでピットと表彰式はまかせても大丈夫。つまり走りに専念できるということです。が、自由に動けるということは「絵的に」「ドラマティック」な写真が撮れなかった場合、言い訳などできませんから、ミスター・バイクのお仕事がなくなるかもしれないという大きなプレッシャーもあるのです。もちろん同業者のT君にも負けられないしで、小心者の私は、この時点ですでに目も顔も引きつっていたに違いありません。


※注3)
当時50万円近くした中古の500mmf4.5レンズを、20万円位という破格の価格で仲介してくれました。フィリピン人の女性と結婚し、その後は向こうに渡って大金持ちになったと聞いた気がします。儲かっているのならお仕事ください。連絡乞う。

※注4)
レースカメラマンの大御所になっているそうです。

 
 この年の日本GPは、250・500のダブルチャンピオンが決定していたフレディ・スペンサーに、ホンダワークス1年生ながら鈴鹿で負け知らずのワイン・ガードナーが来日し、全日本3連覇達成を目指す平忠彦、何としても阻止したい水谷勝の大バトルが期待され大いに盛り上がっていたのです。思えば1990年代前半まで続くレースブーム、レースバブルのはじまりの頃でした。見どころの多そうなレースですが、やはりメインはスペンサーでしょう。それをどう撮るのか悩むところです。

 
 金曜日の朝、鈴鹿入りし練習走行を見ながらポイントを決める事になりました。コースサイドで行けるところは全部回った末、とある場所に目を付けました。が、メインに据えていたスペンサーが練習走行中ダンロップ下で転倒、大ケガを負って急遽帰国したために、この構想は夢と消えてしまいました。前年に続き、2年連続で帰っちゃったスペンサー。この後、皮肉を込めて「コースに出てきたイタチのような小動物を避けようとして転倒した」と噂になりました(本当かどうかは知りません)。

 
 さあ困った、どうするかと再びコースを回ってみましたが、どうにもいい絵が思いつきません。気がつくともう夕方です。結局何も浮かばないまま金曜日は終わってしまいました。

 
 翌日、どうしようか、どうしたものかと悩んでいるとき、M誌のM野氏に会いました。この業界に入った時、最初に色々親切丁寧に教えていただいたバイク撮影の師匠であるM野氏は、とても優しい方で、怒った顔を見たことがありません。口癖は「かまちょく」。かまわず直進の略で、目玉でおなじみCHUさんの日課である「蒲田に直行」ではありません。

  
「エトー君、ガードナーの走り見た? 凄いよ。ヘアピンの立ち上がりで必ずウイリーするんだよ。スペンサーがいなくなったし、来年の契約もあるし、猛アピールしてるんじゃないかな」と面白そうな情報をくれました。

 
 この言葉にピンときてピンピン反応し(アソコではなくカメラマンの感性が)、M野氏と共にヘアピンに行きました。予選が始まり次々に選手が走ってきます。フレーミングを考えたり、ちょっとだけ撮ったり(今と違ってフィルムなので、ここで沢山撮影してしまうと決勝用フィルムが無くなってしまうので、押さえに撮りました)しました。日本人選手は立ち上がりでアクセルを開けても、ほんの少しフロントが浮くような感じでイマイチ絵になりません。

  
 これは企画倒れかなと思っていると、ガードナーが目の前でもの凄いウイリーを見せてくれました。他のコーナーでは見ることの出来ない大ウイリーに歓声が大きくなります。
「ね、エトー君、凄いでしょ。ガンガンウイリーしてるでしょ。マシンのパワーが毎年どんどん上がってきているのが解るね。世界選手権はもう終わったしスペンサーが帰っちゃったから、もしかしたらガードナーのマシンは来年モデルかもよ」

  
 なるほど、そういうこともあるのか、あの走りならいいタイム出ているんじゃ? とピットに戻りタイムをみれば、ガードナーがコースレコードでポールポジション。これでハラは決まりました。

  
 スタートからヘアピンに到着する頃にはガードナーと後続に差が出来ているはずです。狙いの絵は「ヘアピンの立ち上がりでウイリー決めている後に日本人ライダーを従えるガードナー」に決めました。

 
 翌日、T君にはヘアピンアウト側から撮影することを伝えてコースに行くバスに乗り込みました。撮影の内容は秘密です。人が考えた構図を横取り(横撮り?)するようなことはカメラマンの仁義としてないのですが(今はどうかわかりませんが)、もし話をして撮れなかったら笑われるのでしなかっただけです(小心者ですから)。



1985年11月号表紙
日本GP特集に続く某バイク屋さんの広告です。某田島先生が見たら激怒しそうな肉食系バイク男子丸出しのキャッチコピーです。シビレます……か?

  
「キャッチコピーを入れられるよう、右に空きスペースを作るフレーミングにしなくては」と構想は完璧です。とは言え私が勝手に決めただけで、実際にそうなるかはわかりません。目星をつけていた場所に行くと、M野さんがいました。やっぱり考えることは一緒なんだなと思いながら「M野さんおはようございます。すみません、この奥で撮影してもいいですか」と挨拶をしました。「やっぱり来たね。あのウイリー見たら決勝どうなるか気になるよなー。俺も狙ってるからね。頑張っていい写真撮ろうよ。何なら前で撮りなよ」と快く笑顔で言ってくれるではないですか。本当に出来た方です。

  
 M野さんの前で撮影したいのはやまやまですが、たとえ許してもらえたとしても「後から来た者が先に来ているカメラの前に出るのは礼儀に反する」と、私は思っています。でも立ち上がりの後ろ姿を狙っていたりすると、後ろにいても邪魔になってしまうので一概に後ろならOKとも言えませんが。私は、もし自分のカメラの前に後から他のカメラマンが入ってきたら丁寧にお話をして移動してもらいます。決しておそろしい言葉を発したり、悪い目つきで人払いをしたりしません。私を見ると誰もが「怒ってる?」と聞きますが、怒っているのではありません。最初からこんな顔なんです。解って下さい。決してキザな奴でもありませんからね、N尾さん。

 
 そうこうするうちにウオーミングラップが始まりました。ヘアピンまでにタイヤもそこそこ暖まってきたのか、ガードナーは凄いウイリーを決めて走り去って行きました。私は心の中で「本番で必ずやってくれよ」と祈り、ついでに自分をアピールするように大きく手を振って見送りました。「タツヤ、ダイジョーブ、マカセテオキナサーイ!」と、横目でチラッと見てくれたような気がしました(むちろん勝手な思い込みです)。

 
 全てのマシンがヘアピンを通過し、遠くにエキゾーストサウンドが消えていきます。一瞬の静寂の後、大爆音と共に場内放送がレースのスタートを告げました。ガードナーが好スタートを切ったようです。これは期待できるかもしれない! わくわくそわそわしながら、予定の場所にピンを置き(ピントを予め合わせておくこと。オートフォーカスなんてありません。全手動時代ですから)時を待ちます。S字を過ぎ、ダンロップ下をくぐり、デグナーを曲がり、ヘアピンへとエキゾーストサウンドが近づいてきます。思ったとおりにうまく仕留めることが出来るのだろうか……喉が乾いてきました。でも水を飲んでる余裕などありません。小心者の私は緊張しまくりで、今にも心臓が口から出てくるんじゃないかと吐き気に襲われます。心配で心配で気が変になりそうですが、ファインダーから目を離すと大変なことになりそうな気がして、構えた体勢をくずさずじっと我慢しました。

 
 すぐそこまでエキゾーストサウンドが近づいてきました。この先はもう何も聞こえない無の世界です。気分はスナイパー。獲物が狙った位置に来たら撃つ。そうは言っても吐きそうなのですから、戦場に行ったら間違いなく先に撃たれることでしょう。

 
 突然、ファインダーの中で何かが動きました。

 
「ガードナー!」

 
 140馬力オーバーのNSR500(※注5)ですからほんの一瞬のはずですが、スローモーションのごとくだんだんピントが合うのが解ります。前輪がピントのラインを通った瞬間、意識することなく指がシャッターを切っていました。



1985年11月号
下の見開きに続くのはこの1ページのみ。つまり日本GP特集はわずか3ページだったのです。3ページのためにカメラマン2人に編集1人で2泊3日。世知辛い今ではとても考えられません。当時は当たり前でしたが。

※注5)
「1985年だろ? ガードナーだろ? NSRじゃなくてNSじゃないの?」と思われるかもしれません。1985年のNSR500はスペンサー専用と言われていますが、鈴鹿はNSではなくNSRに乗りました。YouTubeの動画で確認してください。動画ですぐに見られるなんて、ありがたい時代になったものです。


1985年11月号
これがスナイパータツヤ渾身の一撃の作品です。「シャワー室に3センチのお湯を貯めて入浴」とか「カッパで一儲け」とか「バイクに挟まって笑われる」とか、そんなことばかりしているわけではありません。一枚で完結する破壊力ある写真をキャッチコピーの入る位置まで計算して撮るのがプロフェッショナルのお仕事ということが解ってもらえると思います。そうですよねエトさん?

 
 仕留めた! デジタルとは違って現像が上がるまでどう写っているのか解りませんが、手応えはありました。当時のカメラマンは現像が上がらずとも、手応えを感じれば、ほぼ思い通りの絵になっていたものです。  

 
 いずれにしろ私の撮影はこれで終わりです。タイム差を考えると2周目以降は後続とかなり差がつくはずでガードナーの一人旅。写真としてはカッコイイのですがドラマにならない。これが「絵的に」ってやつでしょうか? チャンスは1周目だけだったのです。

 
 この後、どうしたか全く覚えていません。レースが終わってM野さんに「どう、カッコイイの撮れた?」と聞かれ「ハイ! いい絵が撮れました、M野さんのおかげです。ありがとうございます」と笑顔で答えるところまで、ぽっかり記憶が飛んでいます。

 
 あのときもし撮れていなかったら……今でもシャッターが下りない夢を見て夜中に飛び起きる、なんてことはありません。そんなのドラマの中だけです。

 
 レースの次の日、今度はライダーとして、ガードナーレーシング教室に参加したのです。その話しはまた今度。

 
追伸
 ところで、近藤さん。アヒルのヘルメットまだ届きませんが……


衛藤達也
衛藤達也
1959年大分県生まれ。大分県立上野ヶ丘高校卒業後、上京し日本大学芸術学部写真学科卒業。編集プロダクションの石井事務所に就職し、かけだしカメラマン生活がスタート。主に平凡パンチの2輪記事を撮影。写真修行のため株式会社フォトマスで (コマーシャル専門スタジオ)アシスタントに転職。フリーになり東京エディターズの撮影をメインとしながらコマーシャル撮影を少しずつはじめる(読者の方が知っているコマーシャルはKADOYAさんで佐藤信哉氏が制作されたバトルスーツカタログやゴッドスピードジャケットの雑誌広告です)。16年前に大分県に戻り地味にコマーシャル撮影をメインに活動中。小学校の放送部1年先輩は宮崎美子さんです。全く関係ないですが。


●衛藤写真事務所
「ぐるフォト」のサイトを立ち上げました。グーグルマップのストリートヴューをもっと美しく撮影したものがぐるフォトです。これは見た目、普通のパノラマですが前後左右上下をまるでその場に立って いる様に周りをぐるっと見れるバーチャルリアリティ写真です。ぜひ一度ご覧下さい!

http://tailoretoh.web.fc2.com/ 

  

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