─ で、気仙沼に着いた…。

着いたのはもう夜の10時を回っていました。一部の地区では電気が通っていたらしいですが、街は真っ暗で、何も様子がわかりませんでした。海から2キロほど離れた国道のバイパスを走っているのに、磯の臭いと油の混ざったような強い臭気があたりに立ち込めていて、ただごとでないことが起きていることは感じられました。

実家に帰ると、両親がロウソクを灯して居間で毛布にくるまって暖をとっていました。テレビはもちろん、新聞さえも届いていないので、「世の中がどうなっているかわからないのが一番不安」だと、二人は言っていましたね。

─ 到着は夜だったので、実際のすさまじい被害を見たのは翌日ですね。

日の出とともに起きて、バイクで気仙沼の市内を見て回りました。

見慣れたはずの風景はそこになく、堆積したがれきが一面に広がり、そのなかに国道が1本、まっすぐ通っていました。

子供のころ遊んで過ごした入り江や浜が見当たらず、そこらにあったはずの知人たちの家の跡に、こなごなの木片や家財道具、痛めつけられたクルマが散らかっているのを見て、「早くカメラに収めなくちゃ」と焦り、無我夢中で撮りまくっていました。まるで、シャッターチャンスに恵まれたような、高揚した気持ちで次から次へと場所を変えて撮影を続けていたんですが、だんだん呼吸がぜいぜいと荒くなり、涙があふれてきて止まらなくなったんです。

泣き始めて、ものすごい喪失感が押し寄せてきました。

津波のあと炎上し続けた地区にも行ってみました。

見渡す限り、赤黒く焼けたがれき。この壮絶な光景に、私はカメラを首にぶら下げたまま、手を合わせて立ち尽くすしかありませんでした…。

ファインダーの中に広がる風景。思わず手を合わせ、立ち尽くすしかなかった。

ファインダーの中に広がる風景。思わず手を合わせ、立ち尽くすしかなかった。

ファインダーの中に広がる風景。思わず手を合わせ、立ち尽くすしかなかった。


─ そういう被災地でも、生活を続けていかなければならない人々がいる…。

気仙沼では地震から3日後に、5000人規模の自衛隊員が現地入りし、道路の確保やがれきの除去など、一気に処理し、その成果には目を見張るものがありました。そのお陰で、少しずつ生活環境も復旧しはじめ、私が現地入りした時点では、すでに交通の主役もクルマに戻っていました。

しかしここまでなるには、がれきに道をふさがれ、徒歩や自転車で行きかう人がほとんどだったといいます。津波の被害を受けた人たちのなかには、数日間、屋上などで救助を待ち、助け出されたあとは着の身着のままで避難所を転々としながら、何十キロと離れた自宅まで何日もかけて徒歩で帰ろうとするケースが多かったようなんです。

市街地はほぼ壊滅しているため、営業している商店は皆無。ライフラインが途絶えてしまっているから、津波を免れた郊外のスーパーマーケットもひっそりとしています。

そうしたなかで、震災の翌日から仕事をしていたのが、なんとバイクショップだったんです!

─ バイクショップが?

例えば「モトショップヒロノ」という店では、震災の翌日、津波で命からがら助かった人たちが、ビショぬれのまま店の前まで歩いてきて、「何か乗りものを貸してください」と、次々訪れたそうなんです。

聞けば、「南三陸町の家が心配なので、早く帰りたい」という人がいて、まだかなり距離があるので、「これを使って早く家族に会いに行きなさい」と、店主の廣野武男さんは原付スクーターを渡したというんです。

それも1台どころか、次々と何台も貸し出すことになり、ついに誰に渡したかもわからなくなったといいます。それでも廣野さんは、「何とかしてやりたい」という気持ちになったと言います。

ほかにも、「このバイクを乗れるようにしてほしい」と、しまってあったバイクの整備を頼みにくる客が急に増えたそうです。在庫してあった原付も、数日で売り切れ。地震発生から、結局1日たりとも休んでいないと話していらっしゃいました。

こうなると店の営業というよりも、職業的な使命感ですね。「こんなにバイクが頼りにされるなんて、この商売をやっていてはじめてのこと。バイクのよさが、復興に役立ってくれれば本当に嬉しい」と、廣野さんは話していました。

自衛隊が一気に道路を確保した。しかしガレキの撤去はこれからだ。橋本さんのバイクと気仙沼市内。

モトショップヒロノの廣野社長とカブ。バイクは被災地の重要なツールだ。



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